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2016年01月08日

医師4年目の後期研修医からメディカルドクターへ
想定外だらけの人生で体当たりで描く自分だけの道

臨床医とは別の医師のワークスタイル。その1つに製薬会社のメディカルドクター(MD)があります。新薬開発の最前線における医学的アドバイザーとしてその重要性は増す一方のMD。でも、そこで働く医師の姿や思いに触れる機会はそんなに多くはありません。そこで今回は、外資系製薬企業でMDとして勤務しながら、2人のお子さんを育てるY先生のワークライフについてお話を伺いました。

Y医師
北米の四年制大学・分子生物学生化学科を卒業後帰国。中国地方の国立大学医学部に学士入学。都内私立大学麻酔科医局を経て、製薬企業のメディカルドクターに転身。医師の立場からグローバルに社会貢献したいとの目標に向けて邁進する傍ら、2歳と11か月の2人のお子さんの育児にも奮闘する
ワーキングマザー。

悩みながら決断した医師4年目での転身

麻酔科後期研修医だった医師4年目にメディカルドクターへの転身を決意したというY先生。一般的に製薬企業でのメディカルドクターに必要だと言われるのは5年以上の臨床経験と専門分野。MDを目指すにはあまりにも早いタイミングだった。「医師としてもまだ一人前とは言えない後期研修中。同期たちも必死に研鑽を積んでいる中、退局してしまっていいのか……と前例がないため本当に悩みました。どう考えてもリスクのほうが大きいですから」と振り返る。「それでも決断したのは、高校卒業後5年間を過ごした北米での経験、そこで培われた語学力、コミュニケーション力を生かしたかったから。自分の人生の大きな転機となった海外留学での日々を無駄にしたくなかったんです」。

そうY先生に思わしめた留学生活。それは、バスケットボールに全力投球していたスポーツ少女を、医師を志す女性へと劇的に変身させたものだった。とはいえ、必ずしも積極的な理由から海外の大学へ留学を決めたわけではない。「バスケが大好きで私立の強豪校に進学したため高校生活はバスケ一色。正直、勉強はほとんどしていませんでした(笑)。当然、将来についても深く考えてはおらず、自分がシンスプリントした際にお世話になった理学療法士さんの影響で、スポーツ分野の理学療法士になれればいいかなと思っていた程度。そんな中、たまたま新聞で日本人のための北米大学の広告を見つけた家族に勧められ、“英語くらい話せたほうが将来の就職に役に立つのでは”と留学を決めました」。

軽い気持ちで海外に渡ったものの、蓋を開ければクラスメートも寮もほぼ日本人という環境。「海外にいるという解放感もあったのか、日本人同士でつるんでしまって、勉強より遊びがメインになってしまっていました。最初こそ楽しんではいたものの、遊んでばかりで一向に英語も上達しない毎日にだんだん疑問が大きくなっていって……。思い切って1年で辞めました」。勉強せざるを得ない環境になれば変わるはず。一念発起したY先生は、日本人がほぼいない田舎の学校を探し入学手続きを取る。「英語を話すしかない環境に自分を追い込みました。3か月間必死に勉強して、TOEFLを受験。現地の短期大学に入学することができました」。

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人生で初めて本気で勉強した結果生まれた思い
「理学療法士でなく、医学部を目指そう!」

理学療法士の勉強に生きるよう運動生理学を専攻したい。そう希望したもののここでまさかの問題発覚。「高校での理系科目の履修が運動生理学専攻の規定に満たなかったんです。高校は普通科英語コースだったため、理系科目が少なかったので……」。そこでまずは1年で高校範囲で不足している理系科目の単位を取得。その後、無事運動生理学の道に進んだ。「正直、18歳まではきちんと勉強したことはありませんでした。でも、留学して何も達成せずに帰国するのは格好悪いなと思ったんです。だから、生まれて初めて本気で勉強しました」。紆余曲折があったからこその必死さで学び続けた結果、驚くほど成績は向上。「高校時代まで勉強とは無縁。成績が良いという状況は初めてだったので、ものすごく自信にもなりました。学ぶ楽しさに目覚めたら欲も出てきて、理学療法士でなく医師も目指せるのではと思うようになったんです」。

そこで、現地の四年制大学に編入。医学部に最も近いと思われた理学部分子生物学生化学科を専攻した。卒業後は、中国地方の国立大学医学部に3年次学士入学。「英語が話せれば便利かな」程度の軽い気持ちで日本を飛び立ったY先生は、5年後医学部新入生として帰国した。「両親もびっくりしていましたが、何より私自身が自分の変化に驚きました。もともと勉強ができるタイプではなかったので、失うものが何もなかったのが良かったのかもしれません。決してまっすぐでないまわり道の連続でしたが、必死にもがいて頑張れば、どんな困難な状況も変化を起こすことができると身を持って学びました」。

スポーツドクター志望から麻酔科医、そしてMDへ

努力により、目標に近づくのでなく、目標自体が大きく変化していったY先生。それは、医師になってからも同様だ。「スポーツ分野の理学療法士希望から、医学部へ転身。自然な流れとしてスポーツドクターを目指していました。でも、いざ医師になってみると目の前の多くの患者さんを助けたいとの気持ちが大きくなって。どんな患者さんも救ってあげられるようになるには、どうしたらいいか。それは、一番重症の患者さんを診られるようになればいいんじゃないか。そんな考えから救急や集中治療の専門医を目標に麻酔科を選択しました」。

しかし、外科医メインの手術麻酔がどうしても合わなかった。でこぼこながらも大胆に自分自身で道を切り開いてきたからこそ、裏方仕事に慣れなかったのかもしれない。「何かが違う…と思いながら取り組んでいたからかもしれませんが、留学生活5年間で得たものを生かせていないのではないのかとの思いが日に日に強くなって。研修中の身でこんなことを思うのもお門違いとは思いつつも、自分のユニークなバックグラウンドが臨床現場では全く発揮できないと、いてもたってもいられなくなったんです」。そんな思いと、いつかはまた海外で生活したいとの希望を叶えるにはどうしたらいいか。そこで思い至ったのが製薬企業のMDだった。

しかし、現実はそう甘くはない。「紹介会社にもお願いして様々な製薬会社にアプローチしましたが、臨床経験が5年はないと難しいと一蹴されてばかり。ポテンシャルに期待いただき話が進んだとしても、提示される給与が低すぎて躊躇してしまう。専門がないから厳しいであろうことは予想も覚悟もしていましたが、さすがに落ち込みました」。そんな中で転機となったのはビジネス特化型のSNS「LinkedIn」に登録したことだった。「医師としてプロフィール登録すると、ものすごい数の仕事紹介がきました。そんな中で知り合ったエージェントから、英語のできるMDを探しているという内資の企業を紹介され、縁あって入職することになりました」。

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居心地の良い内資、チャレンジングだが自分で学ぶしかない外資
MDとして経験して見えたこと

製薬企業での最初の仕事は、グローバルの安全管理部での仕事だった。「専門もない中、MDとしてのキャリアをスタートさせるとっかかりとしてはベストな仕事でした。グローバル、特にアジアリジョンの医薬品の安全対策を立案・実施したり、副作用や有害事象症例に関する報告を管理したりという業務は、医学的な面よりオペレーション力や英語力が求められる仕事。臨床試験の詳しい知識がなくてもできるうえ、上司も先輩も面倒見がよく楽しく仕事を進められました。上司が優秀な方で本当に恵まれていたと思います」。

しかし、製薬企業MDである限りは、臨床試験をサイエンティフィックに理解し、管理できるようにならなければ生き残っていけない。3年ほど過ぎ、医薬品の開発業務への思いが強くなっていった頃、外資でMDとして勤務する知人から引き合いがあった。外資系の巨大製薬メーカー。開発している薬もオンコロジー、免疫領域、肝炎治療と多岐に渡る。またとないチャンスに転職を決めたY先生だが、入社後は苦労も多かったという。「内資と外資の風土の違いかもしれませんが、前職では手厚かった研修・育成体制がほとんどなくて…。上司も多忙を極めており、なかなか教えてもらうこともできない。ローカル試験(日本マーケットの臨床試験)を担当していましたが、業務遂行は手探り状態。周りに聞いたり、勉強をしたりとキャッチアップしていったつもりですが、自分が思う通りの十分な活躍はできず反省することばかりでした」。

とはいえ、留学時代に培った粘り強さを発揮して少しずつ経験値を上げていったY先生。「ローカル試験の経験を積んだら、グローバル試験管轄のポジションにアプライしたいと思っていました。でも、海外勤務という目標への道筋も具体的に描けてきたところで予期せぬ事態となってしまって…」。それは大幅な組織変更だった。「外資系企業によくあるパターンではありますが、組織のトップが代わり、今までのポジションがなくなってしまいました。あと5年はこの企業で経験を積みたいと思っていた矢先。目の前が真っ暗になりました」。とはいえ、キャリアストップはしていられない。心機一転、ピンチをチャンスに変えるため転職活動に突入した。

知り合い経由の紹介、転職エージェントからの紹介などいくつもの案件から決めたのは、初めてMDを採用するという外資系製薬企業だった。「規模も小さく、ネームバリューもない製薬会社で、メディカルアフェアーズの責任者としてのチャンスをいただきました」。大手から認知度も低い企業への転職。もちろん迷いもあったが、面接の際の対応が印象に残ったという。「常につきまとう問題ですが、臨床経験が足りない部分を指摘されました。でも先方は、医学的な知識や専門知識が不足している部分は、個別契約で非常勤のメディカルアドバイザーのシニアドクターを雇うよとおっしゃってくださったんです。お互いの希望と足りない部分を洗い出し、柔軟に解決法を提案いただく姿勢にここでなら自分の成長と会社への貢献を叶えられると思いました」。規模が小さいということは、それだけ関わる範囲も広く、成長の機会もスピードも速いと考えたという。

子育てとの両立で実感
企業ならではの柔軟な働き方

そんなY先生は、1社目在籍時に1人目、2社目在籍時に2人目のお子さんを出産している。保育園はもちろん、住み込みシッターさんの手も借りながら育児にも奮闘する毎日。苦労はあるものの、病院とは異なる企業ならではの働きやすさ、両立のしやすさを実感しているという。「育児休業や復帰後の1時間の育児時間、有給休暇、フレックスと制度を当然のものとして利用できました。病院勤務では、制度が形骸化していたり、他の先生への負担を考えて利用への心理的ハードルも高かったですが、周りも制度の利用を当たり前のことととらえてくれますね。それに加えて、2社目では子ども1人につき有給とは別に1年で5日看護休暇が付与されていました。また、ドキュメントレビューが多いため、パソコンと電話さえあれば在宅勤務でも進められる。時に自宅からテレビ会議システムで打ち合わせに参加することもあります。そういった柔軟な働き方ができるのは企業ならではと思います」。

そうはいっても、2歳と11か月の2人のお子さんの育児と仕事との両立は苦労も多い。「働いているママはみんな同じだとは思いますが、自分の時間は取れません」ときっぱり。「小さな子どもが2人いると、たとえば保育園関係の書類を書くだけでも大変。書類を舐められたり、ぐちゃぐちゃにされたり…。予防接種のスケジューリングだって一苦労です。仕事の予定を調整し、いざ小児科に行っても微熱があって接種不可でアウトとか。徒労感に崩れ落ちますよね」と笑う。なるべくお子さんとの時間を増やしたいと思いつつも、現実的には難しいこともある。でも、「寂しいって思わせることのないように気を付けているつもりです。幸せは、明るく楽しい雰囲気の中でこそ生まれるもの。だから、人の出入りのある家にしたいなと家族やいとこ、友人たちによく遊びにきてもらっています」。

数多くの大胆で華麗な転身に彩られたY先生の人生。「リスクのあるほうとないほうなら、あるほうを取りにいってしまうタイプかも」と笑うが、どんな困難も無謀とも思える選択も、まっすぐに体当たりし、真摯にもがいて、紆余曲折があっても最終的には望む道を引き寄せてしまう。スマートとはいえなくとも、つまずきながら前のめりに一歩ずつ歩みを進める粘り強さで形作られてきたY先生のワークライフ。目標に向けてまっすぐ進むことだけが正解じゃない。時に行き先さえも変えながらいろんなルートで自分だけの道を切り開いていくことも骨太で貴いキャリアを
作っていく――。

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