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2016年04月13日

過酷な外科医の世界で第一線で輝く
乳がん手術のスペシャリスト、
昭和大病院乳腺外科・明石定子先生。
オペのやりがいも子育ての難しさも、すべてを力に変えて。

乳がん手術数が年間約100例という昭和大学病院乳腺外科の明石定子先生。神の手と呼ばれ、これまでも2000例以上のオペに携わり、がん治療の最前線に立ち続けてきました。「とにかくオペがうまくなりたい!」と国立がん研究センターにレジデントとして飛び込み、キャリアを積み重ねてきた明石先生。その一方で双子のママとして子育ての難しさに直面。しかし、歩みのスピードをゆるめることはありませんでした。男社会である外科医の世界で、女性医師が輝ける舞台を切り拓いてきた姿を追いました。

明石定子(あかしさだこ)先生

 

昭和大学病院乳腺外科准教授。1965年生まれ。東京大学医学部医学科卒業後、同大学医学部附属病院第三外科に入局。1992年より国立がん研究センター中央病院外科レジデントとしてオペの経験を積み、同乳腺外科がん専門修練医、医員、2010年には乳腺科・腫瘍内科外来病棟院長を務める。2011年より現職。女性外科医をサポートする日本女性外科医会の役員も務める。日本外科学会指導医・専門医、日本乳がん学会乳腺専門医・指導医・評議員、検診マンモグラフィ読影認定医師、日本がん治療認定医機構暫定教育医。

手術が楽しくてたまらない。
迷わず決めた外科医の道。

 「研修に来てもいいけど女性用の当直室はないよ。トイレもないし、ロッカーもない」

あるメジャー外科の医師にそういわれたことが、明石先生の気持ちを奮起させた。「これって女は来るなってこと?と思いましたよ。成長するための苦労ならまだしも、科で最初の女医としての苦労はしたくなかった。だから、女性の先輩のいる外科で研修をお願いしました。そこが東大病院の当時の第三外科。乳腺もありましたが、メインは消化管でした」

 オペがうまいドクターの執刀は、展開が早くて見ていると楽しくてたまらない。性格的に自分は外科に向いていると思っていた明石先生は、タフでガチガチの男社会でもある外科医の世界に迷わず進んだ。入局2年目で「もっと手術がうまくなりたい」と国立がん研修センターのレジデントになることを希望する。東大病院の教授からは「思いっきり勉強してきなさい」と快く送り出してもらい、国内トップレベルの外科医集団の現場に飛び込んだ。「1年目は画像診断や病理を学び、2年目から食道、胃、大腸、肺などの臓器ごとにまわってオペの勉強をしていきました。臓器のスペシャリストの先生方たちばかりで、オペの運び方や手技など、どれをとってもすばらしく、心躍りました」

 オペに入れるといっても1年目は第3助手として、執刀医の術野を確保するため、他の臓器を器具で抑えておく「鉤(こう)引き」が仕事。「鉤引きをやっていると術野がまったく見えないし、何時間も同じ姿勢なので辛かった。研修医の頃は寝不足が続いていたので、ついウトウトして大先生の背中で寝てしまったこともあり、今でもチクリと言われます(笑)。当時の楽しみといったら最後に創部を縫わせてもらうことでした」。

これまで最も長かったオペは研修医時代に最初に入った副甲状腺の手術。「朝9時に始まって終わったのが夜中の12時ごろ。途中でトイレに行きたくなるのを心配して水をあまり飲まずに手術に入ったので喉がカラカラになり、点滴の水を見て“それ飲みたい!”と思ったくらい。夜7時ごろに看護師さんがストローでジュースを飲ませてくれて何とかしのぎました」。

大御所ドクターから「お前は私の手術を邪魔する気か!」と叱咤されることもありながら、がむしゃらに経験を積んでいった明石先生。研修医時代に講師のドクターから「女性だから乳腺科がいいんじゃない?」と言われ、「術後の患者さんの急変が少なく女性であることを生かせるのかなと、なんとなく決めた形でしたね。最初は迷いもありましたが、今はあのときの選択が間違っていなかったと思っています」

ファミサポ、院内保育を利用して
子育てと外科医を必死でこなした日々。

 そして、明石先生は30代後半には双子を出産。産後3ケ月で復職し、夜中は授乳でほとんど寝られずフラフラになりながらオペにのぞんでいた。子供が3歳になるまで当直が免除され、実家の母親と義母がサポートしてくれたにせよ、双子の乳飲み子を抱えての外科医との両立は、想像以上のハードさだった。「小児科に子育て中の女医さんがいらして、一緒に院内保育園に預けていました。彼女がいてくれたことで気分的にラクになりましたね」。朝、病院で回診をしてから家に戻り、子供を保育園に送り、お迎えはファミリーサポートや母親にお願いするといった連携で、綱渡りするように育児と仕事をやりくりしていた。「英語論文でなければ業績にならないと教えられていたので、子供が寝た後にもがんばって英語で書いていました。大変ではありましたがその苦労が力となり、今では後輩の英語論文指導の役にも立っているんですよね」

 現在、2人のお子さんは中学1年生。「母親としては反省だらけです。子育てって本当に難しい。仕事は周りに教えてもらいながら成長していけますが、母親業は経験ゼロからやらなくてはいけない。子供にがんばってほしくて熱くなると逆効果だったりして。仕事をせずに専業主婦だったらうまくいったかというと、そうではないと思うし。正解がないところが悩むところです」

「子育てしながらでも外科医は続けられる」
その姿が若き女医たちの目標に。

子育ての大変さを知っているからこそ、後進のドクター育成にはストレスなく楽しめているという。「だって医師たちは子供と違って、最初からモチベーションが高いですからね(笑)。うちの医局には約20人のドクターがいますが7割が女性です。乳がんの治療に携わりたいという女医さんが増えているのはうれしいことです。結婚や出産のタイミングについて相談を受けることもよくあります。うちはママドクターがすごく多く、研修医の子たちも“ここなら働きやすそう”と思ってくれているのかもしれません。私も子育てをしながら外科医を続けている先輩の存在が、励みになりましたから」。明石先生は日本女性外科医会の役員を務め、女性医師たちが外科の世界で活躍しやすい環境作りにも尽力している。

 国内の乳がん患者は急増しており、2015年発表のデータによると2015年中には年間新規罹患患者数が8万人を超えると予測されている。明石先生が勤務している昭和大学病院では2010年にブレストセンターを立ち上げ、乳がんに特化した治療体制を整えた。「患者さんが最も気にしていることは、命にかかわる状態なのかどうか。初期のがんであれば9割は治ることを伝え、状況によってはしっかり治療していきましょうと、安心感を持ってもらうことを優先します。乳がんはいたずらに怖がる病ではないんです」。

自信に満ちた話しぶりながら、柔らかな表情の明石先生。オペ百戦錬磨の外科医となると威圧感を覚えそうだが、まったく感じさせないところが明石先生のすごみでもある。「外来とオペとではまるで違う仕事なので、手術中はもっと厳しい表情になっているかもしれないですね。手術は左手の使い方大事です。上手に左手で組織を展開させて、いかにベストな視野を確保できるかがカギになります」。若き医大生時代と変わらぬ、輝く表情で外科医の醍醐味を話す明石先生。オペの技術を磨くことも、家庭を持ち子育てをすることも、あきらめずに手に入れてきた。「難しい状況でもやらずに後悔するよりもやって後悔しようと思う性格。大変であればあるほど楽しそうですね、と言われたこともあったかな。私は忙しいほど幸せなんです」。厳しい外科の世界で、明石先生が一歩、一歩踏みしめてきた足跡は、あとに続く女性医師たちの道のりを築きあげていた。

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