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2016年10月14日

違いを知り、受けとめることが初めの一歩。
途上国で培った発想力を
精神障がい者医療につなげて。

精神科医療、リハビリテーション、精神障がい者の生活支援などの手掛ける、医療法人社団研精会理事長の山田多佳子先生。大学病院の新生児科で研鑽を積んだのち、世界を知るため、カンボジア、バングラディッシュといった発展途上国のODAに参加。日本では当たり前の価値観がガラガラと打ち砕かれ、文化、宗教、境遇の違いを受け止めるキャパシティーの広さと柔軟さを身に着けました。豊かな人間力を備えた山田先生の次なる挑戦が、地域に密着した障がい者サポート。柔らかな思考で難題に向きあう、力強い姿を取材しました。

多種多様な価値観に触れるため
途上国の医療現場へ

すべてが順風満帆に思えた。東京女子医大病院の小児科に入局後、新生児領域を専門とし、1984年に開設された周産期センターでは第一線で技量を発揮。山田多佳子先生は、充実したキャリアを着実に積み上げていた。

「新生児科を約7年やった頃にアメリカ留学の機会をいただいたんですが、海外に出てみてこのまま大学病院に居続けていいのか、と思うようになったんです。世界の富の8割を世界の人口の2割の先進国が掌握している。そのことにあらためて気づくとやっぱり不公平だと。途上国に貢献できないのか、力になれないのかという思いがわいてきました。一番の原動力はいろいろな世界の人たちに出会いたいという好奇心だったかな」。

帰国後は東京女子医大病院で講師のポジションが与えられ、准教授、教授の道も現実味を帯びていた。しかし、山田先生は内なる声に従い大学病院を退職。国立国際医療研究センターの門を叩いた。厚生労働省の管轄の国立国際医療研究センターは、ODA案件に従事するのが任務。母子保健が専門の山田先生は、乳児死亡率の高い国が派遣対象国となり、ポリオの研修でインドネシアに赴いたのち、ボリビア、カンボジア、バングラディッシュなどに滞在する。

「ボリビアでは日本が手掛けたホスピタルハポネスに技術協力という形で参加しました。あるとき、保育器に昨日いたはずの赤ちゃんがいなくなっていて、どうしたの?と聞いたら、『親が連れて帰った』とスタッフが当たり前のように答えるわけです。今保育器から出たら死んじゃうから!と慌てて探しに行ったんですが、その町には住所がなく、闇雲に歩き回りました。しかし、赤ちゃんは見つからず愕然とするだけ……。そんな私の姿を見た医療スタッフが『タカコがそんなにがっかりするなら僕たちが探してあげるから』と、私の滞在期間が終わったあと、見つけてくれたようです」

“医者としての正義”だけでは太刀打ちできない現実がそこにはあった。「日本の価値観を押し付けてはダメなんです。バングラの子ども病院で勤務していたときに、必ず遅刻してくる若いドクターがいました。よくよく話を聞くと、彼の家は貧しくひとりで十数人の家族を養わなければならず、数か所の病院を掛け持ちしている。だからどうしても遅れてしまう。もちろん時間を守らない医者は悪い。でも、自分が彼の立場だったらきっと同じことをするだろう。そう思えたので、彼のことを受け入れられるようになったんです。

赤ん坊が危険な状態でもお祈りを優先する医師もいました。だからといって彼らの宗教観を否定することはできない。相手の境遇を踏まえて理解し合うこと、謙虚さを忘れないことを途上国に来て学びました。たぶん私の場合、日本の大学病院にずっといたら、視野の狭い嫌なヤツで終わってたと思う(笑)」

 彼らに知識や技術を伝えることで現地の医療が変わっていく。その手ごたえもひしひしと感じていた山田先生。「現地の医師から『タカコは何でそんなに赤ん坊のことで一生懸命になれるのか』と聞かれたことがありました。日本のODAで人工呼吸器を導入しても、彼らは定期的に設定方法を変えるなどの処置法を知らないがために、成す術もなく命が失われていく。救命率の低さに絶望感を抱いているようでした。そこで技術を伝え、二人、三人と赤ちゃんが助かっていくと、彼らの目の輝きが明らかに変わっていくんです」

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次なるミッションは
精神障がい者と地域をつなぐこと

途上国での生活は約11年に及び、医師として、人として、かけがえのない経験を積んだ山田先生。高齢になった父の病院を継ぐため帰国することになった。父・山田禎一医師は東京や神奈川を拠点に精神科医療、リハビリテーション、障がい者支援など手掛ける医療法人社団研精会、社会福祉法人新樹会を立ち上げ、地域医療に多大なる貢献をしてきた。

「昔は父に反発していましたが、年を重ねるにつれ、いい意味で距離を置いて接することができるようになったんです。山田禎一というおもしろい人間をもっと知らないのはもったいない、と」

2003年に研精会の介護老人保健施設『デンマークイン新宿』の施設長を任され、還暦を迎えた2015年には全施設を統括する理事長に就任する。

「今は臨床から離れ病院経営に全力を注いでいます。組織のマネージメントに関しては途上国での事業で培われ抵抗はなかったのですが、難しさを感じるのは人件費のこと。うちの職員約1300人と彼らの家族のことを考えると身が引き締まる思いです。父はとにかく職員を大切にしてきました。ボーナスはひとりひとりに手渡しし“ご苦労様”と感謝の言葉をかけていたんです。その姿勢はしっかりと受け継がないと」

精神科は女性医師も多く、彼女らのサポート体制にも尽力を注いでいる。一部施設に保育所を併設するなど、女性職員たちのライフステージに合わせた働き方ができるように整えています。私は小児科だったので、やっぱり子どもが病気になったらお母さんがいたほうがいいと思うしね。時短勤務になっても彼女たちが肩身の狭い思いをせずに、皆で助け合える組織であり続けたいんです

山田先生の次なる挑戦はというと――。

「精神科は専門外でしたがこの1年間勉強させてもらいました。理想をいえば精神科は400床も500床もベッドはいらない。だからといって床数を減らすと経営が難しくなるというジレンマがあるのが正直なところです。目指すのは、障がい者の方が地域で生きていけるようにバックアップすること。

その成功例である北海道浦河町の『べてるの家』に何度か訪れて勉強させてもらっているんですが、さっそく見習ってうちでも畑をはじめました。収穫した農産物をジャムやドライ野菜にして障がい者の方たちが販売し収益を得られる仕組みを作ろうと考えています」

大学病院での最先端の臨床にはじまり、途上国でのODA協力、そして1300人の職員を抱える病院理事長。強靭な精神力、豊かな好奇心、あふれる愛情で、ダイナミックに人生をかけて抜けてきた山田先生。その圧倒的な情熱と輝きは、これからも周囲を照らし力を与え続ける。

山田多佳子(やまだ・たかこ)先生

1979年東京女子医科大学卒業後、同大学病院小児科に入局。その後、母子総合医療センター新生児部門に勤務。1987年より2年間、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学。帰国後、東京女子医科大学病院に戻ったのち、国際協力に活動の幅を広げるため国立国際医療研究センターに入局。1991年より11年に渡り、カンボジア、バングラディッシュ、ボリビア、アフガニスタンなどで、母子保健分野の専門家として技術協力に従事。2003年に父の病院を継ぐため医療法人社団研精会に入職し、理事長に就任。2015年には山田病院院長に就任。

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