71705ebf 677d 4d76 a999 8e8aebd67ea8ワークスタイル
2016年12月05日

医者の職を離れて7年。それでも
自分にできることがあると信じた。
ー耳鼻科医・松尾有希子先生ー 

2016年3月3日“耳の日”に、東京・世田谷区の明薬通りに『三茶おはな耳鼻科』を開院した松尾有希子先生。子どもの頃から細かい手作業が得意で、その器用さを生かせる耳鼻科の医師になるが、30歳を前に結婚退職、渡米。そして約7年のブランクを経て、復職から開院へ。紆余曲折のなかで気づいたのは「自分で自分にブレーキをかける必要はない」。一歩踏み出せずにいる人のために、とその経緯をパンチのあるすがすがしい口調で語ってくれました。

医者をやめて結婚、渡米。
起業家の夫を手伝う日々へ。

「父は歯科開業医でしたが、継ぐ必要はない。お前は医者になりなさい。そう勧められるままに医学部に進みました。耳鼻科を選んだのは、手先を使う仕事がしたかったのに加え、もともと自分に耳鼻科の疾患が多く、患者さんと思いを共有できると考えたから。患者さんに寄り添い、いろんな話をしながら診察できるのがいいと思ったのです

2年間の研修で救急、内科、小児科などをまわった後、正式に耳鼻科に配属になるが、大学病院の「私は医者でございます」とどこか大上段に構える雰囲気は苦手だったという松尾先生。当時、茶髪は禁止だったが、「私自身を知ってもらうには茶髪がいい。黒髪のほうが安心するなんてナンセンス」と反発したことも。教授にとっては扱いにくい存在で、大学病院を出されることになる。

新たに勤務した外病院には頼りになるドクターが多く、のびのびと充実した2年半だった。だが、漠然とした違和感が拭えない自分がいたことも事実。「診察は楽しくても、医者のプライドや人間関係は難しい。このまま続けて何があるのだろうか……とあせるような気持ちが生まれていた」と振り返る。やがて大学病院に戻るように指示されるが、「医者を続けるよりも、彼についてアメリカへ行こう」と決意。当時、つきあっていた男性がマイアミで起業していたのだ。


これからという医師のキャリアをあっさり手放して結婚。出産を経て、娘とともに渡米。主婦業のかたわら、彼のレストランを手伝い、「お肉を切ったり、オーダーを取ったり」と、180度違う日々を送る。高校時代にマクドナルドでアルバイトしたこともあり、サービス業は好きで性に合っていた。マックで覚えた接遇も役に立った。ところが、「これを乗り越えるといいことがある。医者に戻ったときに経験が生かせる」と、いつしか復職を考えるようになっていた。結局、夫とは不具合が生じ、小学生の娘を連れて7年間過ごしたアメリカを離れることになる。

帰国すると、すぐに健康診断のアルバイトに登録。生活費を稼ぐ必要があり、インフルエンザの予診や会社の検診などを精力的にこなした。患者さんとのやりとりのなかで、耳鼻科の疾患の話が出てくると饒舌になる自分がいて、やはり耳鼻科が好きだと再認識。そして、新小岩にあるクリニックの耳鼻科でアルバイトを経て、院長に。

7年ものブランクがあるのにどうやって復帰したの? と聞かれることがよくありますが、やってみると自転車と同じです。採血も最初から失敗しなかったし、頭でアレコレ考えるよりも現場で動くのがいちばん。勇気を持って一歩踏み出すことです。自分が考えているよりも体が覚えているから大丈夫」。新小岩のクリニックには離婚経験者が多く、とても頼りになった。患者さんには離婚のストレスで突発性難聴になった人もいた。「わかるわー、と2人で一緒に泣いたこともあります。当時の私はまだ離婚調停中でいろんなことに怯えていたのですが、診察に集中できるのは救いでした

3年半ほどがむしゃらに働き、「新しい目標がほしい」と考えはじめたころ、同居していた父親が倒れた。大事にはいたらなかったが、通勤に1時間ほどかかる新小岩で働き続けるのは難しい。かといって自分に何ができるだろうか、と悶々。転機のきっかけは、知人に誘われて経営塾で勉強をはじめたことだった。

>>女性に強い! 自分らしいキャリアを築くなら
医師の常勤求人検索はこちら➡
『Dr.転職なび』
  アルバイト検索はこちら➡『Dr.アルなび』
エムステージ産業医サポート【医師向け】

ブレーキをかけていたのは自分自身。
私は患者さんに喜んでもらいたいだけ。

当初は、「開業したい」とは考えていなかったが、経営学だけでなく心理学の勉強などもして異業種の仲間と交流するうちに、自分がどういう人間で、何をやりたいと思っているかが明確になってきた。

「私は人に喜んでもらうことが好きで、患者さんにもサービス業的な感覚で尽くしたい。大学院に行っていないし、専門医も持っていない。7年のブランクがあるから開業はできないと勝手に決めつけていた。でも、自分の持つ100%の力で診療すればうまくいくのは、新小岩のクリニックで経験した。自分で自分にブレーキをかける必要はないと思えるようになったのです」

前向きな気持ちが膨らむなかで、知人を通じて面識のない稲見誠理事長から声がかかった。東京都でレセプト数が3本の指に入る小児科医と知って心踊るが、それよりも「先生のクリニックを訪れたとき、看護師さんが病気の子どもをあやしていて、おかあさんもすごく楽しそうに話をしている。私もこの雰囲気を目指したいと思い、すぐに一緒にやらせてくださいとお願いしました」

そして、 “お鼻”と大好きな“お花”。さらにハワイ語で“家族”を意味する“ohana”に想いを込めて、『三茶おはな耳鼻科』を開院。広々とした院内はカラフルな空間で、プリメイラの花のロゴが温かく迎えてくれる。

「元気と癒しの花を咲かせたい。これは稲見理事長の理念でもあります。うちのスタッフは初心者が多いのですが、ベテラン世代の気のいい女性ばかり。友だちが多くて、賑やかで、与える力が強い人を選んでいます。実は、マイアミ時代のママ友もスタッフのひとり。向こうで知り合った友だちは、離婚で疎遠になる人も何人かいましたが、彼女は“大丈夫? ”と親身になってくれた人です。

駐在から戻ってくるというので“助けて”と頼んだら、いつもはバカ話ばかりしているのに、自分は頼られると力を発揮するタイプだから声をかけてくれて嬉しかったと、真顔で引き受けてくれました。彼女は“なんとかなるわよ。大丈夫よ”という大らかな性格で、私のことも癒やしてくれています

帰国したとき小学3年生だった娘は中学生になり、アメリカの大学進学に向けて頑張っている。「いろいろありましたが、夫とはいま“娘を幸せにするチーム”という協力関係になっています。離婚や仕事をやめることなど、世間ではマイナスと考えられていることでも、明るい未来につながるということを私の経験をふまえて患者さんであるママたちに話すこともよくあります。

おかげさまで『三茶おはな耳鼻科』は、患者数が増え続けていて医者としてはいい方向に進んでいると思います。でも、経営という面で見ると、雇われ院長としての自分の働きはまだまだ発展途上。どこまで自分が関わるべきか、マニュアルがあるわけではないので、それを探っていくのもこれからの私の仕事。気を引き締め直して、前進していきたいと思っています」

 

松尾有希子(まつお・ゆきこ)先生

1971年生まれ。日本大学松戸歯学部に1年通ったのち聖マリアンナ医科大学に入学。卒業後、同大附属病院耳鼻咽喉科学教室入局。2002年に結婚し1女をもうける。夫の仕事で2005年に渡米。2011年に帰国し、いくつかのクリニックでアルバイトをしたのち、新小岩すばるクリニックに勤務。2016年3月に三茶おはな耳鼻科を開院。

■文/石毛幸子

医師の常勤求人検索はこちら➡『Dr.転職なび』
  アルバイト検索はこちら➡『Dr.アルなび』
エムステージ産業医サポート【医師向け】

ヘルスケアの今と未来がわかるWEBマガジン➡『HEALTHCARE Biz』

 


<関連記事>
夫は主夫。育児も仕事も楽しむために
目指すのはフリーランスという働き方。

「女性医師のキャリアファイル vol.002」
精神科医×(元)衆議院議員の場合