7f99ad50 c002 4717 a153 cac11a531d67ワークスタイル
2017年08月29日

オープンマインドの人間力で広がる女医の輪、そして母の輪
産婦人科医・生月弓子先生の、医師としての武器

いつでも明るく、おしゃべり好き。誰にでも分け隔てのないコミュニケーション。「若い頃からおばちゃんみたいな性格だったから(笑)」と自分でも語るように、生月弓子先生は裏表のない明るい人柄で、たくさんの人を惹きつけます。しかし、先生が医療の道へ進んだ当時、病院は、“男尊女卑”の色が濃く残る封建社会。“出る釘は打たれる”という社会の中で先生が身につけたのは、医師としての技量だけでなく、「まずは自分が心の内側を見せる」という、先手必勝のコミュニケーション術でした。

週1日~3日のアルバイトで育児と両立。
求人数、国内最大級の『Dr.アルなび』

かつては「病院で味噌汁作り」も女性医師の仕事
古い体制の医療業界で、チャレンジが始まる!

信州大学の医学部を卒業し、東大の産婦人科に入局したのは、平成8年。当時から、社会では少しずつ女性医師の数も増えていた。とはいえ、まだ病院は男社会。はっきり「男尊女卑だ」と非難する声はなかなか上がらなかったが、それでも医師という職業は到底、女性が主婦業と平行して行えるような仕事ではなかった。にもかかわらず病院では、女性だけに割り当てられた理不尽な役割も、まるで不文律のように存在していた。

「以前は、当直の先生のために女性医師がお味噌汁を作ったり、年末年始には御徒町へ新年を迎えるための買い出しに行ったり。そんな徒弟制度もあったそうです。今、考えるとありえないですよね」。生月先生が入局した当時は若干、そういった制度も弱まっていたが、それでもまだ、出る釘は打たれるというように、男性よりも目立ちすぎる女性は押さえ込まれる時代。この男社会で女性医師が生き残るには、自分のマインドを変えなければならない。当時はそんな風潮だった。

「3K」と言われた産婦人科をあえて選択
一人一人の患者と対話することの大切さを実感

生月先生が医師を目指すことに決めたのは、高校生の時だった。3歳年上の姉は、千葉大学の医学部に入学していた。また、伯母は名の知れた心理学者だった。自分も心理学を学んでみたいと思ったが、将来、心理学関係の仕事に就くなら、医師免許を持っていた方がいいのではと考え、信州大学の医学部へ入学した。

しかし、専門を選ぶ段階になり、再び悩む。精神科に行こうと思ったが、「自分の性格だと患者さんに感情移入しちゃうかもしれない」と考え、また、ポリクリで精神科をまわった時、女子中学生からつきまといにあった経験もあって、精神科の医師は難しいだろうと断念。外科は女性の職場ではないと言われ、かといって、皮膚科や耳鼻科、眼科などもあまりピンと来なかった。そんななか、浮かんできたのが産婦人科だった。

ポリクリで、緊急の帝王切開に立ち会った経験が忘れられなかったからだ。胎児の心音が下がり、一時はとても危険な状態に陥ったが無事、赤ちゃんが誕生。そのとき赤ちゃんの母親が、今でもまだ出血が続いているのに、涙ながらに「ありがとうございます」と何度も言ったと言う。

「当時、担当してくださった先生が人格的にも素晴らしい方だったんです。よく、私たち研修生に『君たちにダウン症の子どもが生まれたらどうする?』など、自分ごととして考えさせるような質問を、たくさん投げかけていらっしゃいました」。こうして、産婦人科の医師になろうと決意したものの、「当時、産婦人科といえば3Kの職場。加えて、これからは少子化が進む時代。あえてそんな厳しい道を選ばなくても、って周りの人からも言われました(笑)」。そんな生月先生に産婦人科医になることを決断させたのは、知人のある一言だったという。「いま、道を選ばなかったら二度と産婦人科にはなれないかもしれない。やめることなら、いつでもできるのだから」。その言葉に、生月先生の迷いは消えた。

やがて、信州大学を卒業して東大病院や関連病院で研修を積んだのち、東京大学大学院へ。この時の師匠は、堤治先生。東京大学産婦人科教授として長く勤め、のちに2008年4月から山王病院院長に就任。東宮職御用掛として、雅子妃殿下のご出産も担当した医師である。「堤先生には、本当にたくさんのことを教えていただきました」と、生月先生は振り返る。「奥様も医師であり、いつも『これからは女性の時代だよ』とおっしゃっていました。それまで私が学んでいた古い徒弟制度の環境から考えると、まったく革新的。大きな影響を受けました」。

東大病院では不妊治療、良性疾患、お産、腹腔鏡、麻酔などを幅広く学んだ。夜中から採血スピットを細々と準備して、朝6時になると採血にまわった。「毎日、患者さん一人一人と接する時間が多く、みなさんとたくさん会話をしました。腹水が溜まって苦しそうな患者さんに、『素敵な下着ですね』と声をかけると『あなたもデートの時には、こういう下着をつけなさいよ』と冗談っぽく言われたこともありました。お正月にはお年玉を渡され、『怒られますから』と言っても引き取ってくれなかったり……」。教授は、「そういうのも患者さんには生きがいなんだから、とにかくベッドサイドに行け、話をしろ」と言った。毎日顔をみて会話する中で患者との信頼関係も育ち、「採血、上手くなったじゃない!」と声をかけられることもあった。病気をみるのではない、一人一人の患者をみる。これは医師として、一番はじめに教わったことだった。

スキルアップを目指して転職!
プロのエージェントがお手伝いします。
コチラから登録(無料)を

病院の廊下で生まれた偶然の縁が
離島や僻地医療に関わるきっかけに

長野という、地縁を大事にする土地で学んだことに由来するのだろうか。人との縁を大事にする生月先生の姿勢は、職業や相手の地位に関わらず、誰に対しても公平に向けられた。ふとした出会いがきっかけになり、結ばれた縁もある。

「東大病院で勤めていた時、医局長と助教授のゴルフバッグを宅急便に出すために、廊下を運んでいたんです。すると、気の良さそうなおじさんが『持ちましょうか』と声をかけてくださいました。いえいえ、大丈夫ですなんてやりとりをしていたら、その方が徳洲会グループの事務局長さんだったんです」。病院の廊下での出会いがきっかけで、その後、生月先生は「与論徳洲会病院」で離島医療に携わるようになった

「現在もなのですが、当時は与論島には常勤の産婦人科の医師がいなかったんです。そこで私が毎月2回、訪問することになりました」。飛行機が飛ばない悪天候の日には、セスナで飛んだこともある。与論島ではたくさんの人との交流に恵まれた。「これも、病院の廊下での偶然から始まったのですから、やっぱり、ひととの縁は不思議ですよね」。そうしみじみ振り返る。

「ふつつかな未熟者ですが…」が、何かを頼む時の枕詞
自分から弱みを見せると、たいていのことがうまくいく

プライベートでは、学生時代からの付き合いである頭頚部外科医と結婚。大学院時代に長女を出産し、博士号をとってから二人目を、その後、三人目を出産した3女の母でもある。医師としての役割を真摯に果たしながら、実は、子どもたちの学校で役員を務めるなど、教育にも熱心だ。仕事と育児、どちらかだけに重心を置くことを良しとしない。「娘が私立の幼稚園に入った時、園の先生にこう言われたんです。『お母さんがバリバリ働いていることは、できるだけ避けてください。教育や育児が最優先だとお考えください』」。今は子供の教育について考えることが大事、だから仕事をセーブするのが親の務め、というわけだ。

「でも、それはおかしいと思いました。だけど、その幼稚園はそれが当たり前の世界。お母さんは家にいて、子供の教育に情熱を注ぐのが常識なんです」。だったら、と生月先生は考えた。仕事はセーブしない。だが、送り迎えは自分でやる。そして、医師として園に協力できること、たとえば園の行事で救護ドクターを務めるとか、園の救急カートの内容を見直すとか、そういうことは積極的に協力した。「仕事をしているお母さんもちゃんと役にたつんだということを示したい。そのために、自分に何ができるか考えて、進んで動くようにしました」。

もちろん、家族の協力も欠かせない。「大切なのは、夫の教育(笑)。うちは一見亭主関白だけど、子どもたちのお弁当は夫が作ってくれるし、私が土日に当直を入れたら子どもの面倒を見てくれるんです」。今でこそ、協力的なご主人だが、結婚当初は家庭のことに無頓着。初めての子どもを出産する時、生月先生はマタニティブルーで悩まされた。「でも、少しずつお願いできることをバトンタッチしていくうちに自覚ができたようで、行動が変わってきました」。ときにはわざと土日に当直を入れて、ご主人が子どもの面倒を見ざるを得ないような状況を作ることもあるんですけどね、と笑う生月先生。そのせいか、「主人は医師仲間と『東京恐妻組合』なんて冗談を言って憂さ晴らししているみたいです」(笑)。

だが、仕事も家事も子育ても、すべて自分で引き受けようとしても必ずどこかで破綻する。それなら最初から「できないものはできない」と、包み隠さず見せてしまった方がいい。はじめはあまり家事や子育てに積極的じゃなかったご主人も、今では幼稚園で「父の会」代表を務めるなど積極的だ。「現在は母も同居しているので、子どもの面倒や平日の家事はすべてお任せ。試行錯誤を繰り返して、ちょうどいいバランスにやっと落ち着いた感じです」。

医療の関係者に対しても、あるいは、学校や幼稚園の先生に対しても、誰かに何かをお願いするとき、生月先生には必ず添える決め台詞がある。「お願いごとの枕詞は、『ふつつかで未熟な者ですが…』(笑)。田舎者で都会の事情はわからないんです、一から教えてください、という姿勢で相手にお願いすると、たいてい、丁寧に対応してくださるんですよ。だって、本当にわからないんですから」。生月先生の謙虚な人柄がそうさせるのか、それとも、類稀なコミュニケーション能力が自然とそう学ばせたのか。こちらが弱みを見せると、相手も変わる。これは、“男尊女卑”の病院で長く医師生活を続けたことで身についた、処世術のひとつなのかもしれない。

女性医師の輪を広げる活動も展開
常に学びの姿勢を持ち、ポジティブに乗り切る

現在、生月先生を中心に、女性医師の輪が広がっている。さまざまな科の女性医師が30名ほど集まって、互いに情報を交換したり、代診をお願いしたりしているのだ。ときには、大手ベビー用品メーカーとのコラボレーション企画も行われているほどだ。「独身の先生もいれば、乳幼児を抱えた先生もいる。そうした先生たちが長くキャリアを続けるために必要なのは、お互いに事情のわかる女性医師同士が支え、助け合うこと。そして、活躍の場を増やしていくこと。そういう体制を普段から作っています」。なかには直接会ったことのない医師もいるが、信頼の置ける医師の紹介などにより、どんどん輪が広がっているという。

「私が医師の道を目指したとき、まだ病院は完全な男社会でした。その中で、男の人より目立ちすぎるとだめとか、女性の地位向上を訴えると反感を買うとか、見えない制約もたくさんありました」。そんな時代を乗り越えてきた生月先生は振り返る。「3Kと呼ばれた産婦人科の世界に飛び込んで、最初は大変なこともありました。でも今はやっぱり、女性としてこの仕事につくことができて、とても幸せだと思っています」。

産婦人科の外来では、日常的に妊娠中絶を希望する女性も訪れる。相手が誰かわからない妊娠を繰り返し、何度も自分の体を傷つけながら、けろっとした顔でまた戻ってくる女の子もいた。「最初は、どうしてそんなことをするんだろうって理解に苦しみました。でも、人の事情はさまざまで、必ずしも正しいことが良いわけではないということを知ったんです」。お金がなく、風俗で働くしかない女の子もいる。その結果、望まない妊娠をしてしまう子もいる。今はまだ、負の連鎖の真っ只中にいるとしても、いつか、それを断ち切ることができれば−−。そんな思いを抱え、現実と理想の中でたくさんの女性を支えてきた。

「ノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子さんがおっしゃったように、『いまが最悪と思っても、置かれた場所で咲きなさい』って、うちの娘にもよく言い聞かせるんです。最悪だと思っても、何かしら、自分にできることはあるはず。人生、日々修行なんですよね」。常に人の輪の中心にいながらも出しゃばらず、控えめでオープンマインドな姿勢はたくさんの人を惹きつける。そんな生月先生の座右の銘は、「実った稲穂はこうべを垂れる」。「医師になって20年以上。それでもまだ、学びの真っ最中です」。生月先生は、無邪気な笑顔でそう話す。

生月弓子(いけづき・ゆみこ)先生
長野県出身。信州大学医学部卒業、東京大学大学院修了。東京大学医学部産婦人科入局後、東京大学医学部付属病院産婦人科に勤める。現在は3人の子どもを育てながら、北青山Dクリニック、ミッドタウンクリニックで診療に当たる。また、各科の女性医師を約30名束ね、情報交換や代診依頼などの場とする活動も。さらなる女性医師の活躍を目指し、積極的に働きかけている。目下の悩みは忙しくて大好きな旅行に出かけられないこと。これまで訪れた国は60ヵ国に及ぶ。

文/鈴木博子

 \女医こそ向いている/
働く女性をサポートする産業医。
エムステージ産業医サポートにお問合せを


<関連記事>

妊娠が汚点に思われた医局時代、
女性視点を貫き、拓けた未来とは。
―産婦人科医・海老根真由美先生の挑戦―~前編~

【女医のキャリアと育児】スキルアップ法、育児との両立のコツとは?
女医のお悩み相談室 Vol.3

マルチな産婦人科医を目指し、行動力でつかんだ理想の形。
スキルアップのための転職そして海外ボランティアへ