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2017年09月15日

「女医の味方は女医」。苦難を共に乗り越えた戦友がいてこそ今がある
―産婦人科医・直林奈月先生―

優しい笑顔が印象的な直林奈月先生は、熱いガッツと、裏表のない明るい人柄で、多くの人を惹きつけます。キャリア女性にとって、“女の敵は女”とよく言われるけれど、先生の場合は「苦しいときは、いつも女医仲間に助けられた」といいます。

先生が産婦人科医を志した頃は、まだまだ女医が少なかった時代。結婚、出産、育児など、ライフステージによって、人生が変化しやすい女医にとって、女性医師同士の絆はとても重要だったようです。仲間と共に数々の苦難を乗り越え、ワークシェアの大切さを学んだ直林先生。39歳で母となり、理想の働き方を求めた結果は…。

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がむしゃらに学んだ2年間が
産婦人科医としての原点

現在1歳の娘を育てながら、産科・婦人科の診療、分娩、オペもこなす直林奈月先生。妊娠・出産、就活、保活を同時進行でこなし、昨年、赤心堂病院に転職したばかりだ。
「38歳で結婚し、すぐに子どもを授かったことは、素直に嬉しかったです。そろそろ諦めかけた頃にできた子ですから。でも、私の40年の人生のうち約15年は仕事がメインだったので(笑)、現場には早く戻りたかったです。戻るなら産科も婦人科も両方診られる病院を、という希望がありました」。

「仕事漬けだった」と振り返る15年は、女性の産婦人科医には厳しい環境の連続で、「ギリギリの選択を迫られることも多かった」と打ち明ける。

直林先生は高知医科大学卒業後、大学附属病院の産婦人科に入局。2年目に赴任した太田西ノ内病院(郡山市)が、産婦人科医としての自分の原点だという。
同院は福島県内で最大規模の病院の一つ。1次から3次救急まで「断らない救急」をモットーに、各診療科とも症例数が多いことで知られる。

「信頼する教授から、『あそこは野戦病院みたいなところだから、きっと力になる』と言われました。実際、分娩は年間1000件以上、夜中に20週台破水の妊婦さんが救急搬送されることも日常茶飯事。手術は毎日あり、普通はなかなか診られない難症例も多数経験しました。夜間に医師は自分一人しかいない、怖い思いもたくさんして、度胸やスキル、判断の仕方などお産のノウハウを一から学んだことが、いますごく役に立っています」

当時、高知県では限られた医師しか携われない腹腔鏡手術に、身近に触れる機会があったことも大きかった。内視鏡に造詣の深い指導者と出会ったことで、後に先生自身も日本産科婦人科内視鏡学会腹腔鏡技術認定医を取得。母となった今も、オペに携わっている。

「駆け出しの頃に、貴重な経験を積むチャンスをいただき、同期の中でも本当に恵まれていたと思います」。

学びという意味では大収穫だったが、身体には異変も生じていた。
 「赴任後約2カ月で、口が開かなくなってしまって…。ストレスが原因の顎関節症でした。2年目には、すごく気の合う先輩女医が東北大から来られて、飲みに行けば元気になれました(笑)。スキー場が近かったのでスキーにも行けましたし、他にも心強い女医仲間がたくさんでき、仕事もプライベートも充実した2年間でしたね」

休みゼロだった大学附属病院時代
「私が事故れば、終われるかな?」

その後、高知大学医学部附属病院に戻ると、「休みゼロ」の過酷な日々が待っていた。「ここから段々辛くなるんですよね(笑)…」と直林先生。

というのも、月曜~金曜日は大学病院での勤務。土日はほとんどバイトで、しかもバイト先は愛媛、岡山、徳島など県外。土日は完全につぶれるタイムシフトだ。このような状況では、大学院生でもあった自分の研究に費やす時間はほぼない。さらに、バイトがない日も医師全員が病院に顔を出さなければならない、暗黙の雰囲気があったという。

「当直医がいても、患者さんの顔を見るためだけに全員が出勤していて…。状況を変えようと動いても、根本的な解決にはなりませんでした。当時は、12人の医局員で当直、セカンド、外部病院のオンコール、責任の4業務を分担するため、休みがほぼゼロでしたね」。

助教になってからは、講義の資料作りなどでさらに多忙に。
なかでも辛かったのは、外部病院のオンコール対応だ。車で約1時間以上かかる山の中の産院から要請があれば、すぐさま駆けつける。産院まで行ったものの、夜の分娩が朝までかかり、終了後は大学病院に戻って仕事という日もある。

「さすがに心が病みそうでした(笑)。当時は私が山で事故ったら、終われるかなって、真剣に思ったりして…」

医局員の誰が、いつ、うつ病になってもおかしくない。そんな極限状態。そこでも支えとなったのは女医の仲間だったそうだ。

「同期と後輩2人、いつも女4人でつるんでいました(笑)。疲れを忘れるために飲んで、また疲れるみたいな(笑)。そうやって、なんとか頑張っていたのですが、心の拠り所だった同期が結婚。忙しすぎて子どもを作る暇がないと教授に直談判して、当直がフリーになり、後輩はご主人の留学に同行してトロントへ。もう一人の後輩も結婚して東京に転居し、一人でここに留まるのはとても無理だと考え、私も退職を決心しました」

母の病気も退職を決めた理由の一つだが、
「みんなギリギリだったんですよ。妊娠するか、結婚して高知を離れるか。そのどちらかしか、現状を変えられない。そこまで追い込まれていました。大学病院での仕事もできる人にはできるのでしょうけれど、上司の助けがあっても私には難しかったのです」

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出産を機に真剣に考えた
女医が子どもを育てながら働くということ

「大学病院にだけは二度と行きたくない」とこぼす直林先生に、「自分が科長を務める船橋市の病院で働いてみないか」と声をかけてくれたのは、大学の同級生の女医だった。

千葉ならば実家の栃木もそこそこ近い。母親になにかあればすぐに様子を見に行ける。今のように医師専門の人材紹介会社も少ない時代に、「知り合いからの紹介」というのは何よりの安心材料だった。
もちろん不安はあった。今までは手術も教授や上級医と共に行ってきたが、市中病院では自分が矢面に立ち、診療、手術の全責任を自ら負うことになるからだ。

実際働き始めると、産婦人科の医師4人はもちろん、他科との連携も密で協力的。救急車の受け入れもある総合病院なので、仕事は楽ではないが、やりがいも感じられる職場だったという。人は少なくても婦人科内視鏡修行のため、近畿大学に行かせてもらえたことで、産婦人科内視鏡技術認定医を取得することができた

科長である友人女医が自ら率先して休みを取り、誰もが休みを取りやすい環境を整備していてくれたのはとてもありがたかった。
「休みらしい休みを取ったのは初めてでした。そこからは月1回、ダイビング旅行に出かける楽しみもでき、医師も休みを取る大切さを実感しました」

ところが、男性医師が退職し、女医3人体制となったことで状況は一転。科を維持するにはギリギリで、「3人のうち誰かが妊娠したら、分娩はやめよう」という話になっていた。

やがて、直林先生は運命のパートナーと出会い、翌年には結婚、すぐに妊娠と、人生が激変。同時期に同僚が体調を崩し、出産を終えた頃には分娩休止が決定することになった。

乳飲み子を抱えた自分が復帰しても、分娩を無事に再開できるとは思えない。同僚の女医と助産師たちは分娩継続に向けて何とかしたいと頑張っていることはわかっていたが「自分が辞めた方が…楽になるかな」という思いもあり、約6年間勤務した病院を辞める選択も考え始めた。

「子どもは保育園に預けて働けばいいと考えていたのですが、出産後にあらためて、子どもを育てながら働くことについて真剣に考えました。女医が仕事を続けるためには周りのサポートは必須です。この頃、初詣の帰りに神社でもらったチラシをきっかけに、夫の実家近くのマンション購入を即決したのも、自分の家族の生活を大事にしたかったからです。船橋の病院への通勤は1時間半かかる物件でしたが、親のサポートを確保することを優先しました。
今後の仕事は不透明な状況でしたが、産婦人科専門医の資格があれば、どこかに就職できるだろうという確信は頭の片隅にありましたね

 

育児と仕事の完璧な両立は不可能
細く長くでも続けることが大事

転職も念頭に市内の保育園探しを開始するも、結果は全滅。これで吹っ切れ、船橋二和病院を正式に退職することを決め、医師紹介エージェント・エムステージで転職活動をスタートした。

「希望条件は、自宅最寄り駅から40分以内院内保育があり、産科も婦人科も両方担当できるところを提示しました。エージェントを利用するのは初めてでしたが、5つもの病院を実際に見せてもらえたことは有り難かったです。私は、条件面など少し厳しいかなと思っても『いいですよ』って言ってしまう所があって(笑)。自分では言いにくいことを、はっきり相手に伝えて、交渉してくださるので助かりました。“女医が活躍”など、科の実際の雰囲気や付加情報を事前に提供してもらえるのも魅力でしたね

エージェントの担当者は、「産婦人科医としての技量が高く、どこに紹介しても求められる医師と確信しました。お人柄が良く、能力が高い先生だからこそ、最大限に能力が生かせて満足のいく職場を見つけてもおうと、できるだけ多くの病院求人を掘り起こし、実際に足を運んでいただきました。最終的にお金を第一に考える先生が多い中、給料よりもやりがいを優先した直林先生の心意気に感動を覚えました。」と話す。

病院選びの決め手について、先生ご自身はこう振り返る。

赤心堂病院を選んだのは子育て中の女医が2人いて、いずれも常勤として活躍されていることが決め手でした。最後まで悩んだ病院は、週4日勤務でお給料も良かったのですが、常勤医師が男性のみ。私だけ平日休んで、高い給料もらっていると思われたら、居心地が悪い気がして(笑)。その点、赤心堂病院は男性医師含め、全員が平日1日研究日として休みを取っています。ママ女医だけが特別扱いされないのがいいなと思いました。もちろん当直やオンコールなどは優遇してもらっていますが」

ママ女医になった今、育児と仕事の両立はというと…
「両方完璧にできないのは仕方がないと思っています。義母や仲間の協力があってこそ、仕事が続けられるわけで、応援してくれる人に恵まれていることが有り難いです」と直林先生。

先日、これから手術という時に、院内保育から子どもの発熱の知らせが入った際も、仲間の女医が非常勤小児科医を連れて子どもの様子を見に行ってくれ、無事に手術を乗り切った。女医の味方は女医。同じ思いを共有できるママ女医の存在は特に大きいという。

「この病院のようにワークシェアがしっかりできたら、産婦人科は女医に向いている科だと思います。手術も割と早く決着がつくので、体力に自信がなくても大丈夫。外来も女医に診てもらいたいというニーズは高いですからね。それが良いかということは別として。私も産後1年振りの手術はさすがに緊張しました(笑)。これが数年離れるともっと怖くなるので、細く長くでも、仕事を続けることが大事なんです」

最後に産婦人科の魅力について聞くと

「産科、不妊、腫瘍、更年期、思春期など分野が広く、生まれる前からおばあちゃんになるまで、女性の体のいろいろなことを長く診られるのが一番の魅力です。大学にいるとどうしても専門性が強くなってしまいますが、私は市中病院で女性の一生に携わる診療を、これからもやっていきたいですね。どんなことでも気軽に相談できる婦人科クリニックの開業にも興味はあります。でも、それはまだ先のこと。まずは目の前の仕事をしっかりやることが目標です。手術ももっと頑張りたいです」

太陽のような笑顔と真摯に患者さんと向き合う姿に、思わず「頑張って!」と応援したくなる。「私、辛いときは無理、助けてと言ってしまうほうなんです。そうするといつも誰かが手を差し伸べてくれる。振り返れば、本当に多くの方たちに支えられてここまで来られたと思います。女医の味方は女医とサブタイトルをつけてもらいましたが、上級医、後輩の男性医師にも本当に助けてもらいましたし、今も頼っています。そのことはいつも感謝しています」

自分の弱さをさらけ出せるのは強さの裏返し。これからも、彼女が放つエネルギーがプラスの化学変化をもたらすに違いない。

直林奈月(えばやし・なつき)先生
栃木県出身。2001年高知医科大学医学部医学科卒業後、同大附属病院産婦人科へ入局、2002年から福島県郡山市の太田西ノ内病院に赴任。2004年に高知大学医学部附属病院産婦人科に戻り、助教を経験。2009年に船橋二和病院産婦人科へ転職、医長も務める。2017年4月~現職。会社員の夫、1歳の娘と3人暮らし。

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