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2017年10月13日

4児の母、そしてNICUの母として――
日本のNICU発展のバトンを繋ぎ続ける
新生児科医・渡辺とよ子先生の情熱

綾野剛さん主演で2015年放映され、大きな感動をよんだドラマ『コウノドリ』(鈴ノ木ユウ原作)。2年の時を経て、パート2が10月13日から再び放映中です。前回のドラマを通じて「周産期医療」、特に「NICU(新生児科)」を知ったという一般のかたも多いですが、日本のNICUの立ち上げ、発展には多くの育児中の女性医師が携わっていたというのはご存知でしょうか。 その中の1人、NICUを日本に根付かせ、広げ、深めることに尽力してきた渡辺とよ子先生にお話を伺いました。

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「その子のお母さんだったら」という気持ちが生んだ
都立墨東NICUの環境

都立墨東病院のNICUへと続く廊下には、卒業生たちの写真があり、彼らやその家族と病院の交流の場である「おたまじゃくしの会」の案内が張り出されています。さらにNICUを囲むようにある面会用の廊下には、子供たちが大好きなキャラクターの切り絵が貼られ、窓からの光が溢れています。廊下を進むと、赤ちゃんたちの泣き声とピピピ、ピピピという管理モニターの音が聞こえ、保育器の赤ちゃんたちは愛らしい柄の布で作られた寝具に包まれて眠ったり、動いたり。病院というよりも、子供たちが生まれ、育まれる、温かみのある心地よい空間といった印象です。

「もし、自分に赤ちゃんが生まれたらベッド周りをかわいくしたいと思うじゃない?」
「お母さんだったら、きっとそう思うでしょ?」

そう優しく静かに話す人こそ、この都立墨東病院NICUを育て上げた「お母さん」、渡辺とよ子先生です。

すごい先のことは考えてこなかったけど、
自分の大事なものを一度も手放したことはない

これだけ子供達へのまなざしが豊かな先生なら、それはもう一直線にこの世界を邁進し続けてきたのかと思うとまったくそんなことはなかったそうで、意外にも紆余曲折。

2歳で結核を患って医療に多く接する環境にあった渡辺先生は、5歳くらいから「人間のからだ」に興味が湧きます。そして、医者という社会的な職業を目指し始めた思春期にぼんやりと意識した科目は精神科。しかし、医学部内の友人を含め、身近にいる精神疾患の人たちに接するうちに、目の前のたった1人の友人に対しても何もできないことに無力感が芽生えたのです。

「精神科は無理だと、医学生時代には思い始めました。医者になったからには、目の前で死にそうな苦しむ人を治療できるようになりたい。でもそれと同時に、ずっと病弱で運動神経が“いまいち”の自分にはそれも難しいなということも頭によぎって。そんなときに巡り合ったのが麻酔科でした」。

麻酔科との出会いも偶然だったと振り返る渡辺先生。そろそろ卒業で進路を決めようとしたとき、地元の関東に戻りたいなと思っていたら、たまたま筑波大学の麻酔科にいる先輩に声をかけられたのが直接的なきっかけだったといいます。

「偶然の出会いだったとはいえ、麻酔科に対して<生命管理のエッセンス>を感じたのです。毎日が人工蘇生の麻酔科の日常は、『医者になったからには目の前で苦しむ人を治療したい』との思いを叶え、自分を鍛える場所だと思いました」。

またこのころから、自分の方向性は「子供」にあるかもしれないということを自然と思うように。麻酔科に進みながらも、「将来は子供に関係したことをしたい」とその思いを教授に伝え、乳幼児の麻酔に関しての症例をたくさん手がけさせてもらったそうです。

そしてさらなる転職をきっかけに最終的に新生児科医としての人生を歩み始めたころ、親戚に「とよちゃんはうちの血ね」と言われたのだとか。というのも、じつは母方の実家がキリスト教会系の幼稚園を運営しており、祖母、母、おば、姉たちの会話の中心は幼児教育・幼児音楽など子供にかかわることばかりだったそうなのです。

「ちゃんと計画を立ててずっとその先のことを決めて進むということはなかったし、自分にはできないとか向いていないという消去法的に決めたこともありました。でも、自分の中にある大切なことを絶対に手放したりしたことはないのです」と渡辺先生。
要所要所で、自分の根幹にある大切に感じているものを見失わない強さが積み重なってできた「紆余曲折」だったのです。

新生児科医としても、女医ママとしても
大きな存在となった「築地産院」

都立築地産院をご存知でしょうか。それは今の墨東病院NICUの前身となった産院で、日本のNICU発展の礎を築いた病院のひとつです。
1964年から1000グラム未満児の未熟児室を立ち上げ、1975年にNICUが開設されました。この立ち上げをした初代新生児科部長、大正生まれの藤井とし先生はみずからが一人息子を育てるシングルマザーで、黎明期の新生児医療を切り開きし人。新しいことに果敢に挑戦しつつ、母性を持って患者家族に接した「藤井イズム」の薫陶を受けた、ないしはこの病院で働いた新生児科医師が現在の日本のNICUを作ってきたともいえるのです。

渡辺先生は、筑波大学で麻酔科の専門医を取得する傍ら、プライベートでは27歳で麻酔科の同僚と結婚。29歳で第一子を出産します。その後、第二子も誕生。ちなみに渡辺先生は筑波大学の無痛分娩第一号で、その麻酔担当医はなんとご主人! 

「じつは主人が産科への転科を強く希望して、築地産院へ転職することになったのです。その際、『奥さんも麻酔科医じゃなかった? NICUはどう?』とお声がかかって。それで夫婦で産科と新生児科に勤めることになったのです。藤井とし先生も、かつて大学の医局に勤めていたら無給という時代に、『我が子を養わなければいけないからお給料をもらえるところはありませんか?』と教授に直訴して勤め先として紹介されたのがたまたま築地産院だったとか。私もこのときの転職では、2児の子育てと両立できる環境だと病院側から言ってもらったことが何よりの決め手だったのですよ。だから私、目指してこの道に入ったわけでもなんでもないのですよ(笑)」。

「いずれ子供にかかわることになる」という内なる思いは、こうして、確固たる信念のもとの紆余曲折で得た麻酔科の専門医としての実績と、子育てとの両立が可能という職場条件により、結実することになるのです。

常勤医7名で、上司は子育て経験のある女性、お迎えがある日は定時に帰宅できるなど、子育てにも理解がある病院の体制 のおかげで、夫と調整しながら当直もこなすことができ、さらには第三子、第四子を出産(取り上げたのは産科医となられたご主人!)。子育てをしながら、新生児の新しい医療を切り開いて行くことに非常に積極的な「藤井イズム」を日々吸収し、渡辺先生は新生児科医としての道を歩み始めます。

ちなみに、先生のお子さんは長女、長男、次男、三男の4きょうだい。しっかり者で頼りがいのあった長女に、知らず知らずのうちにTHE男児!で大変な3兄弟の面倒をみさせてしまい、「小さなお母さん」はその重責から心身のバランスを崩してしまったことがあったのだとか。

「そのときは私も知り合いの小児心理の先生に相談をして。『べったりしてあげなさい』といわれて、2人だけでお茶を飲みに行ったり、いろいろしました。そしたら良くなって。しっかり者だから私の右腕、なんて思っていたけれど、そのあと彼女が地方の大学に進学するときには『あ〜、これで子育てから解放される!』なんて言われちゃって」

「しっかり者の長女だけだったら自分は育児が上手だとうぬぼれていたでしょうね。3人の男の子たちのおかげで、母親として失格と落ち込むこともしばしば、育児は思うようにいかないということを教えられました(笑)」と、プライベートでも、子供たちからそれぞれの個性の豊かさややりとりの面白さを吸収されてきたのです。

4児の母が新生児科部長!
医師たちが産み育てやすいNICUを作る

新生児科医としてのキャリアを確かなものにしていた1999年、都立築地産院は都立墨東病院として統合されることになりました。その際、新生児科部長に任命されたのが渡辺先生。ここから、築地産院のDNAを継承しつつ、墨東病院NICUを自らの手で作り出すことになるのです。

自身も4児の母。その経験から、出産・子育てや介護・看護など、それぞれが生活をしながら、しっかりと新生児科医として成長できる環境づくりに尽力します。常勤を増やすことで、子育て可能なレベルの回数に当直を減らし、当直明け翌日は1日フリー、土日に当直するとウィークデーに1日休みをいれる1直2勤務制を導入。当直をこなす常勤医でありながら、院内保育を利用すれば母乳育児もできるようにしました。これらは、女医ママにとって最高の環境です。

また、女性医師が働きやすいということは、必然的に男性医師にとっても働きやすい環境ということ。これは、事情のある女性医師だけを「優遇」することで起きる、同僚・上司・後輩の不要な軋轢や不満も未然に防ぎ、かつ、「優遇」してしまうことでその女性医師自身がマミートラックに陥るということを防ぎ、新生児科医としての成長を根本的かつ長期的にサポートすることに繋がります。

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「母子」は切り離せないもの
お母さんの不安のサポートも新生児科の仕事

渡辺先生のNICU作りの活動は、働く医師たちの環境にとどまらず、患者である子供、その母親、家族にも及びます。まず、墨東病院NICUの特徴のひとつに、フォローアップの長さがあります。
「何歳になったから、はい終わりというわけにはいかないです。早産児をはじめとするNICU卒業生は、発達も成長もゆっくりなことが多い。しかも、子育てはずっと続き、その悩みは尽きないものですから」と渡辺先生は言います。

さらに、通常の外来だけでは枠も時間も足りないため、「育児サポートネットワーク」を発足し、「おたまじゃくしの会」という毎月行われるNICU卒業生の子供とその家族が集う会、同窓会、テーマを決めた分科会、機関紙「おたまじゃくし」の運営を行なっています。なんと、ホームページも先生が自ら作成!
そのすべては早産児や染色体異常や障害、病気を持って生まれ、NICUにかかわることになった児の成長や発達を長期間見守り、またその成長を大きな不安のなかで支えつづける母親や家族のためにあるのです。

また臨床においても、「DC(ディべロップメンタルケア)研究」に積極的にかかわり、治療に導入します。
「NICUでは、どうしても人工呼吸器をつけ、点滴を何本もつけるような治療が多いから、抜管しないように拘束することが多かった。でもそれは拷問のようなもの。親だってそんな姿を見るのは辛いのよ。そして、小さかった子が大きくなるときに、多動などいくつかの問題が発生することが多いのも事実です。拘束などによってそれだけのストレスに何ヶ月もさらされていたら、赤ちゃんの脳はイライラした状態になるのではないか、お母さんのお腹で気持ちよく、リラックスした状態と同じ環境を作れば、その後の赤ちゃんの脳の回路をうまく作れるのではないか、という研究がDC(ディべロップメンタルケア)です。物言わぬ赤ちゃんを理解するために、伝えてくる、語るその仕草や行動を理解する。医療スタッフや家族が理解し、ケアする研究。そのケアの連続が、赤ちゃんの精神運動発達に影響するという考え方なの」と渡辺先生。

さらに、その実践的なプログラムと位置付けられる、NIDCAP(個別的発達促進ケア評価プログラム)」の日本初のトレーニングも墨東病院で行われ、先生がその管理者を務めました。 NIDCAPは「新生児科における病院機能評価」みたいなものなので、科、そこにかかわるすべての職員でとりくまなければなりません。NICUに踏み入れた時に最初に感じた育みの場としての心地よさは、こういった「物言わぬ子達は仕草で訴え、行動で語る」を信条とした研究と実践をいちはやく取り入れたからこそ生まれたものなのです。

「こうしてみると、私には無理だと言っていた精神科的なことも、巡り巡って子供やお母さんを通した形で、結局かかわってきているのよね(笑)」とご自身の歩みを改めて分析される渡辺先生。

「NICUの母」となるために必要な要素をひとつひとつ集めてくるかのように進んで来られた渡辺先生の一本の道は、これからもNICUの母子に寄り添うようにずっと続きます。

渡辺とよ子(わたなべ・とよこ)先生
1975年札幌医科大学医学部卒業。1976年から筑波大学付属病院麻酔科レジデントとして勤務。1982年から都立築地産院NICU、1999年から都立墨東病院周産期センター・新生児科部長、副院長を務め、現在は市川市のわたなべ医院院長、非常勤として都立墨東病院に勤務。

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文/田中祐子


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