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2017年10月25日

「女医はダメですか?」男社会の壁を乗り越えてきたパイオニアの生き方
――藤田保健衛生大学医学部 脳神経外科教授/同坂文種報徳會病院 脳血管・ストロークセンター センター長 加藤庸子――

女性外科医として世界で一番多く、脳動脈瘤手術を行ってきたことで知られる加藤庸子氏。それは素晴らしい業績だが、加藤氏が最もこだわってきたのは恐らく、患者ひとり一人から全幅の信頼を寄せられることなのではないだろうか。

かつては、患者から「女に執刀されたくない、男性医師に替わって」と言われ、男性医師からは「女はダメ。手術室から出て行け」と追い出されたこともあったという。今では考えられない理不尽さだが、女医にとって、今があるのも、加藤氏のように「しぶとく」頑張ってきたパイオニアのお陰だ。私たちは、そのことを忘れてはならない。

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努力し続けることが私の普通

午前6時。閑散とした院内の一角に小さな人の輪が出来ていた。「さあ、行きましょうか」声をかけ、加藤庸子氏は患者をのせた車イスを押し、歩き出した。恒例の「朝の散歩」だ。参加者は未破裂脳動脈瘤の手術を受けた患者が多いが、なかには今日これから手術台に上がる患者もいる。「治療への不安を解決するには、患者さん同士で情報交換してもらうのが一番」という加藤氏の思惑通り、ごく自然に会話が弾みだした。話題は病気以外のことにもおよび、時折笑いも起きる。

入院患者と主治医が、これほど近い関係にあるのはめずらしい。感嘆していると「庸子先生って凄いでしょ。大先生なのに。こんなことまでしてくれる人、ほかにいないよ。ぜんぜん偉ぶらない。医者って言うよりはお母さんみたいだけどね(笑)」と退院間近な女性がささやいてくれた。

お母さんみたいな大先生――加藤氏の得意は「クリッピング手術」である。検査で見つかった脳動脈瘤が破裂する前に開頭し、血管と瘤の間を金属のクリップで止血する。これまでに1,900例以上の脳動脈瘤を治療してきた。女性外科医としては紛れもなく世界一だ。手術はコンスタントに週3回以上。技量は広く世界で認められ、06年には日本の脳神経外科では初となる女性の教授に就任、日本脳神経外科学会初の女性理事にも選出された。直近では今年10月『第13回国際脳卒中外科学会』の会長を務めた。

「加藤先生ほど仕事熱心な人はいない」
未だに男性社会であり、女医にとってはアウェー感はなはだしい脳神経外科の世界でこれほどの活躍を続ける彼女に、周囲は別格の賛辞を贈る。だが加藤氏は首を振る。

「私は特別だと思われているみたいですが、自分ではそうは思わない。仕事が趣味みたなところがあるから、全然苦じゃないのね。呼吸するために泳ぎ続けなければならないマグロみたいなもの。患者ファーストで、努力していることが普通の状態なので、立ち止まってはいられません」(以下「 」内は加藤氏)

ゴットハンド直伝の凄腕女医に

加藤氏が大学の医学部を卒業した1978年頃には、外科へ進む女性は数えるほどしかいなかった。

「『切った貼ったの修羅場』『男の世界』という世間のイメージ通り、24時間、男女の別なく働く過酷な世界ですからね。脳外科に進んだ先輩女医はいましたが、しぶとく続けているのは私ぐらいです」

困難と知りながら外科医の道に進んだのはなぜだろう。

「卒業間際まで進路を決めかねていたら、主任教授が誘ってくださったんです。『あなた、見るからに健康そうだから脳外科医やりませんか』と。見込んでもらえたことが嬉しくて、即決しました」

「丈夫な身体」は外科医で成功するための大事な要素なのだろうか。

「大事だと思います。
医師にとっては、たくさんいる患者さんのなかの一人でも、患者さんにとって主治医は1人だけ。自分をちゃんと見ていてほしいと願っています。
でもそうするためには、医師は強い体力と精神力がなければなりません。
『今日はもう限界だから、ここでご無礼させていただく』のか。患者さんの為に、もうひと踏ん張りできるのか。体力だけの問題ではありませんが、私は常に、後者でありたい。それには丈夫な身体は大切です」

加えて、父親の影響も大きかった。

「父は外科の開業医でした。星状神経節のブロック手術で知られており、北海道から沖縄まで、全国から患者さんがいらしてました。心臓外科の救急患者さんも受け入れていたので、消防車や救急車がひっきりなしにやってくる。だから子どもの頃は、父が布団で寝ているのを見たことがありません。いつもリクライニングソファで仮眠している。だけどびっくりするほど健康で、私が丈夫なのも、外科医になったのも、父譲りかもしれませんね」

こうして、ごく自然な流れで名古屋保健衛生大学(現・藤田保健衛生大学)の研修医、中国、オーストリアへの留学など、順調にキャリアを積み重ねていった加藤氏。だが、日本で女性脳外科医として生きていくことは、やはり大変だったようだ。

「中国は当時、まだ社会主義の状態でしたので男性も女性も人民服を着ており、早く帰った方が晩御飯を作り子どもを世話する、共稼ぎが普通でした。男女平等の雰囲気があり、女性の逞しさが印象に残りました。
オーストリアは素晴らしい国でした。音楽の国なので、音楽関係の留学生が多く、友人もできたし、日本よりも女性が認められている感じがして、帰りたくなくなりました」

1984年、藤田保健衛生大学脳神経外科へ入局。そこで直属の上司となったのが、世界で数人しかできない無血手術の技を誇るクリッピング手術のゴッドハンド、佐野公俊氏だった。

「佐野先生には、とても可愛がっていただきました。私は何もできないのに開頭した患者を“観る”顕微鏡の前に座らされて、横から先生の手が二人羽織みたいに延びてきて、解説しながら全部手術してくださるんです。恵まれていました」

世界的名医の愛弟子として、最高のポジションで修行することを許された彼女は、ドクターXばりの凄腕女性脳外科医へと成長。卒業から7年目には脳神経外科認定医を取得し、主治医を務められるまでになった。だが、そこからがつらかった。

「女はダメ」手術室から排除されたことも

「昔の脳外科は出血との闘いでした。器具も術式も未熟だったので、どんなに止血しても勢いよく出血してしまう。手術室から患者さんが生きて帰ってくるだけでも凄いこと。くも膜下出血イコール死に直結するみたいな時代でした。今とはずいぶん違います」

それだけに、若い女性であることは頼りなく見られ、デメリットだった。説明の際も、しばしば患者は男性研修医のほうばかり見る。

「どこを見ているんですか、主治医は私ですよと、言わなくてはいけない場面もしばしばありました(苦笑)」

それだけではない。加藤氏が主治医だと知ると、患者は、あからさまに不安がり、ましてや執刀医であることが判ると「男の先生に替わってください」と何度も要求された。技量では負けていないし、度胸もある。しかし、信頼が築けないまま手術するのは得策ではないと、しぶしぶ執刀医を降りる日々が続いた。

「学会の先生方からは『変わった子だな』『いつ辞めるのかな』と思われていたようです。でも、私は辞めません。しぶといですから(笑)

男性医師たちからも酷い仕打ちを受けた。

「『女はダメ』と言われることは日常茶飯事でした。先輩医師から「女にはできない。邪魔だから出て行きなさい」と言われ、手術室から追い出されたこともあります」

昨今ではありえないような男尊女卑の風潮が、脳外科の世界では存在していたようだ。

「ですが、今だって、一人前の女性医師を『女の子』と呼ぶ男性医師は沢山いますよね。根っこの部分はまだ代わっていないかも」

微笑む加藤氏。理不尽な扱いに、悔し涙を流した夜も一度や二度ではなかったはずだ。

肩で風切るより信頼が大事

冷たく高い「男社会の壁」を、加藤氏はどう乗り越えてきたのだろうか。読み解くヒントは藤田保健衛生大学のホームページに記されていた。

メッセージ
・知識、技量を磨くことはもとより、患者様の心の分かる温かい医師を目指す。
・人との巡り会いを大切に(一期一会)、より多くの人と語り何かを共有していく。
・海外の発展途上国支援を通して、途上国の若者の教育指導、患者様の心身の改善がゴールである。

冒頭の「朝の散歩」など、患者への細やかな気遣いからは「~患者様の心の分かる温かい医師を目指す」姿勢がダイレクトに伝わってくる。1981年に創立し、年2回の市民公開講座と、年1回の患者家族との旅行を30年以上も継続している『Fujita脳神経外科友の会』もそうだ。

「外来で薬を出しているだけでは、患者さんの心は分からない。一緒に旅行すれば、たとえばバスの乗り降りや食事の動作といった日常生活の様子が見えて、よりよい治療につながると考えたのが創立のきっかけでした。医師と患者の関係を超えて、医療だけでない、いろんな話をする機会になっています」

治療に臨む姿勢も真摯だ。恩師・佐野公俊直伝の丁寧で美しいオペをするだけではない。手術の様子は動画で撮影し、術後速やかに、編集なしで患者の家族に見せ、いいことも悪いことも包み隠さず伝える。ただ仲良くするだけではない、この公明正大さが、信頼の形成に役立っていることは間違いない。

こうした日々の積み重ねによって、彼女は「女性が主治医なのは不安」という偏見を払しょくし、「主治医でよかった」という信頼関係に置き換えてきたのだ。

医療界の「男社会の壁」を乗り越えるのには、「人との巡り会いを大切に(一期一会)、より多くの人と語り何かを共有していく」行動が、力を与えてくれた。

きっかけは、アメリカの脳神経外科学会に女性医師の会が誕生し、その総会に、日本からも代表を送るよう要請が来たときのこと。

「代表に推薦されたので、せっかくだから、当時(1990年)25名くらいしかいなかった脳神経外科の女性専門医に集まってもらい、意見を聞いたところ、WFNS(世界脳神経外科連盟)の下部組織として「日本脳神経外科女医会」を発足することになり、私が代表世話人になりました」

その活躍が評価されたのか、2001年には、WFNSのアシスタント・セクレタリーをやってほしいというオファーが舞い込む。それは学会の議事録を作る仕事。母国語が英語ではない上に、女性ではアジアから初めてのケースとあって、周囲は「断ったほうがいい」と止めた。

「ですが、実際にやってみると、これは素晴らしいチャンスだと分かりました。議事録の作成は、今、世界の脳神経外科で起こっているすべてに精通することとイコールだったんです。お陰で、医師としての世界を広げることが出来ました」

日本国内の「男社会の壁」よりも高い「世界の壁」を、彼女は越えたのだ。

ちなみに加藤氏は、30代後半から、「海外の発展途上国支援を通して、途上国の若者の教育指導、患者様の心身の改善がゴールである」との信念を持ち、途上国への医療支援活動にも積極的に関わってきた。

「アジアやアフリカには、脳外科医が全くいない国がいくつもあり、まともな治療を受けられない患者さんが沢山います。そういう国では、整形外科医や看護師が見よう見まねで脳外科手術している。私はそこへ赴き、教えながら手術するという活動を20年以上続けてきました。年に7~8回は出かけています

読者のなかには、「年に何回も海外旅行ができてうらやましい」とうらやんだり、「そんなにしょっちゅう病院を空けて大丈夫なの」と心配する方もいるだろう。

「できるだけ病院を空けないよう、外来が終わってから夕方の深夜便ででかけたりしています。滞在時間も短いですよ。アフリカでの2日間コースの場合には、前日の夜に到着して、2日間活動して、また深夜便で帰る。余分な時間をとったことはありません。帰国したらすぐ手術です。
ホテル代は先方が持ってくれますが、それ以外はほぼ自腹です。誰かに払ってもらうことを期待したら、この活動はできません」

2012年、加藤氏は日本脳神経外科学会初の女性理事に選出された。それから5年。藤田保健衛生大学坂文種報徳會病院 脳神経外科に異動した現在も、精力的な活動ぶりは衰えない。

インタビューの最後に、後進の女医たちに伝えたいことを聞いてみた。

「手術については、私は凡人なので、慌てず丁寧に心を込めて臨んでいます。手術時間は短ければ短い方がいいのは決まっていますが『患者さんにとっては最後のチャンス』。それを常に忘れてはいけない。若い方々にも守ってほしいです。

そして私たち臨床医は、肩で風切って歩くようなカッコいい医者であることよりも、患者さんに信頼してもらうことが大切。手術の際は、ご家族から患者さんの生命をお預かりしている立場です。だから何かあったら即刻お話しする。朝まで待たせるなんてなしでね」

後に続くには、相当な覚悟と努力が必要だろう。だが、「どうか続く人に出てほしい」。加藤氏は「支援を惜しまない」と決めている。

加藤 庸子(かとう ようこ)

1984年藤田保健衛生大学脳神経外科 入局。2006年藤田保健衛生大学脳神経外科教授就任。2009年世界脳神経外科連盟 教育委員会 委員長。2010年藤田保健衛生大学病院 総合救命救急センター センター長。2013年日本脳神経外科学会、女性初の理事となる。 2014年藤田保健衛生大学坂文種報徳會病院 脳神経外科 教授、脳血管・ストロークセンター センター長。現在に至る。

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■文/木原洋美


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