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2017年11月15日

大病院勤務の精神科医から国内外を行き来する産業医へ——「人々や企業の健康に根本から関わりたい」穂積桜先生の原動力とは

精神科医として大病院でのハードワークを続けた後に、思いきって医師を1年間休業し、アメリカ留学やヨーロッパ周遊、東北でのボランティア活動などを経験。その後、北里大学で漢方医のレジデントとして3年間学び、商社マンの伴侶を得てからは海外と国内を行き来する産業医に———。

こう書くと激動の人生を送っているように見えるが、産業医として現在16社を担当する穂積桜先生の医師としてのキャリアには「多くの人を救いたい」「人が病気にならずに健康で暮らせるように、働き方や生活スタイルの改善から関わりたい」という一貫した信念が通底している。

自らのライフステージに合わせて柔軟にワークスタイルを変えながらも、絶えず研鑽を続け、人々の役に立ちたいと願う穂積先生に、その原動力を尋ねた。

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 精神科医を志すも、先輩医師が注射を打つ姿にショックを受けて

2001年に医学部を卒業して医師になりました。新医師臨床研修制度が始まる3年前なので、医師国家試験に合格した後はみなストレートで医局に入っていた最後のほうの世代ですね。

そんなわけでわたしが医師になった時代は、学生のうちに専門を決めて卒業とともに医局に入るという進路が一般的でした。精神科の道に進むことは早くから決めていましたが、ポリクリで出会った1人の精神科の先生の手が注射を打つときにぶるぶると震えているのを見てしまったんです。それが学生だったわたしには、とても衝撃的で。

「ああ、もし自分もこのまま精神科医になったら、生身の患者さんの身体に触れる機会が乏しくて、注射を打つのにも震えるようなドクターになっちゃうかもしれない」と感じたのをよく覚えています。

まずは「よくある病気」をきちんと診られる医師に、という思い

それとは別に、学生時代から「よくある病気」に興味があったんです。「よくある病気」にきちんと対処できれば、目の前で苦しむ多くの患者さんを助けることができますから。しかし当時の大きなトレンドとしては「一般的な家庭医や内科医よりも、専門性の高い医師になることのほうがより価値が高い」という雰囲気がありました。

その点では最初からストレートに精神科医になって道を究めたほうが賢かったのでしょう。しかし、風邪や胃腸炎といった「みんながかかる、よくある病気」もちゃんと診られる医師にまずはなりたい、という希望が自分の進路選択のベースとしてあったと思います。

そこで精神科医になるにあたり、医局の先生とこんな約束を交わしました。

「最初の1、2年目はちゃんと精神科医としてやりなさい。若いうちに経験を積むほうが臨床のセンスが身につくから」とその先生がおっしゃったのに対して「わかりました。でも3、4年目は身体を診られる科を回らせて下さい。研修先は自分で探しますから」とお伝えして、了承を得ました。

地方の小さな病院でカルチャーショックを受けた、研修医2年目

1年目は大学を卒業してそのまま北海道で精神科医として過ごしました。そして2年目に研修で回ったのが、道内の小さな町の病院でした。

人口1万2,000人、かつては炭坑で栄えた町でしたが鉱山が閉鎖になり、そこに残った住民には時代の変化に取り残されてしまった方が多い。そのため貧困率も高く、精神疾患をわずらう方も多いという場所でした。

人口が少ないので病院の規模も小さいんです。医長の先生の次にはもう自分しかいないというような環境で、研修中の身という感覚ではなく、何でも1人で判断しなくてはいけませんでした。ある意味かなりタフな経験だったと思いますが、わたしの場合は「3年目からはまた違う環境で働くんだ」という意識もあり、そこまで思い詰めずに済んだように感じています。

当時はハードだと感じていましたが、いま思い返せばとてもよいキャリアを積めたと思います。都会の中だけで働いていたのではわからなかったであろうことを身をもって学ぶことができました。東京出身で高校まではずっと都会暮らしでしたので、僻地で勤務することによって、自分があたり前に享受してきた環境が都市部ならではのものだったのだと気づけたんです。

僻地医療に従事して学んだこと

例えば、大学病院では精神保健福祉士や臨床心理士の方がいて下さって当然ですよね。でも、小さな地方病院ではそういったコメディカルの方がいらっしゃいません。少ない医療資源の中で何ができるのか、常に自分の頭で考えて優先順位をつける習慣がつきました

また、研修医1年目時代には多くの同僚に囲まれていましたから、情報を共有して助けてもらったりヒントをもらったりもできました。ところが2年目、そういった仲間のいない病院に勤務して、ある種、情報の分断された環境に置かれたわけです。その状況下でいかに仕事へのモチベーションや医療のクオリティを保つのか。全てが自分の肩にかかっているという緊張感は成長につながったと思います。

そして僻地の病院に勤務していると、自然とコミュニティへの眼差しが強くなるんですよ。医療者であると同時に、住人の一員としての視点も持つようになるんです。

当時、その病院にはもう数十年間にわたって入院を続けている患者さんも多数いらっしゃいました。医師としてはその方が社会生活に戻るためのお手伝いをしたいと考えますが、そのコミュニティにとってはその方の入院がすでにあたり前のこととされている、そういう厳然たる事実がある。その矛盾の中で精神科医としてどう仕事すべきなのか、随分と考えさせられました

 

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月7〜8回の当直勤務をこなした大病院勤務時代

そして医師として3年目、4年目は、当初から希望していた通りに、東京に戻って内科と救命の研修を回りました。それを経て北海道に戻る予定だったのですが実際にはそうはならず、精神科で有名な都立松沢病院で勤務を続けることになったんです。

松沢のあとに3年間務めたのは埼玉県東部地域の中核病院で、精神科の救命病棟でした。400名規模の入院施設があり、重い症状の患者さんもたくさんいらっしゃるところです。

松沢、そして埼玉東部の病院と、重篤な患者さんが多く、大規模な入院施設のある病院で34歳まで働き続けました。やりがいは非常に大きかったのですが、かなりハードな働き方だったと思います。

当時はコンスタントに月7、8回当直をしていたんです。みなさんご存知だと思いますが、当直に入るとなると、朝9時から18時まで通常勤務、そこから翌朝まで当直勤務、そしてさらに翌日の通常勤務が続きますから、2日目の夕方6時にようやく解放されるわけです。そんな33時間連続での勤務を週2回近いペースで長年続けていたら、本当に心身ともに疲れきってしまった。それでこの辺りで一息ついたほうがよいな、と考えたんです。

35歳、思いきって1年休業。
世界を旅して働き方を見つめ直す

それで2011年の年頭に「ああ、今年はいったい何をしようかな」と思ってなんとなくインターネットで検索していました。「もうそろそろ旅立ちたいな……」なんていう漠然とした思いもありました。すると「クルーズで地中海の歴史を巡る」というフレーズが目に飛び込んできて、ああこれだ!とピンときたんです。

当時は独身だったので、旅に出るのに何の遠慮もいりません。「よし、地中海クルーズ。これを今年のわたしのテーマにしよう!」と決意しました。

そうと決めたら行動に移すのは早くて、3月には勤務先を退職し、せっかく地中海を旅するならば各地の遺跡に関する知識を増やしてから出発したいと考えてラテン語を学ぶことにしました。どこでも海外の好きなところに行けるようにと、購入したのは世界一周できる航空券です。

クルーズは10月出航なので、それまでたっぷりと時間はあります。アメリカの大学は6月〜8月の間、サマースクールといって市民に開放された講座を設けているところが多く、そこで学ぶことにしました。5月に渡米し、ボストンにある大学のサマースクールでラテン語の集中講座を受けることにしたのです。

アメリカで出会った、休暇を楽しみ、自然と家族を愛する生き方

アメリカの大学で3ヵ月を過ごしたことで、非常に大きな刺激を受けました。ラテン語講座に通ううちに友人もたくさんできたのですが、皆「アメリカ人が金曜日の午後というものをいかに待ち遠しく思っているか」ということを口にするんですね。

人によっては週末の予定が楽しみなあまり、金曜の午後になると仕事をさぼってしまう人もいるとか……。これって日本だと到底考えられないことじゃないですか。

「ああ、この国の人達は、仕事をそういうふうに捉えているんだ。生活の中の楽しみをそんなにも大切にしているんだ」と目からウロコの落ちる思いでした。

また、ボストンというロケーションもよかったと思います。都会の雰囲気を味わいたければニューヨークにいけますし、車で2時間ほども北上すればメイン州です。メイン州にはL.L.Bean発祥の地でもあるフリーポートという街があり、アウトドアを楽しむにはもってこいの場所なんですよ。

週末ごとにそういう場所に出かけて自然に触れて「もう毎週末がリア充!」みたいな生活を送りました。みんな人生をすごく楽しんでるんですね。それがあたり前のことになっている。フェスティバルなんかもしょっちゅうあちこちで開催されていて、家族みんなで楽しんでいるんです。

そう考えたら「ああ、日本人の勤勉でハードな働き方というのは、世界の中で見たら特殊だったんだな」とすとんと納得しました。だからアメリカ滞在は、34歳くらいまでの自分の仕事のやり方を振り返るよいきっかけになりました。いま思えば、あれが人生を切り替えるターニングポイントだったのかもしれません。

 

36歳、漢方を学ぶため北里大学で3年間のレジデントに

そしてその年の秋にはヨーロッパを2ヵ月間回りました。10月には年初に決めていたクルーズにも参加。ローマから出航し、ローマ、シチリア、アルジェリア、クレタ、ロードス、キプロス、トルコと2週間で地中海を駆け巡りました。楽しみにしていた遺跡もたくさん見ることができました。

帰国してからは、震災のあった年でしたので石巻にボランティアに行って、そうこうしているうちに「人生の休暇にする」と決めた1年間は過ぎました。 

好きなことを思いっきりやって、本当にリフレッシュできたんです。あのとき休んで働き方を見つめ直すということができてよかったと思います。それでじゃあ次は何をしようかとじっくり考えて、翌2012年からは漢方医学のレジデントとして、北里大学東洋医学総合研究所で3年間研修を積みました。

もともと漢方には興味があったんです。
漢方では「未病」(病気ではないが、病気の一歩手前の状態。何らかの関与によって発病せず健康を取り戻せると考える)という言い方をしますけれど、病気にならないためにまず生活スタイルを整える、その一環として漢方薬を用いる、それでどうしようもなければ西洋薬を使う、そういうやり方もあっていいんじゃないかな、と学生の頃からぼんやりと思い描いていました。

そしてまた精神科病棟で入院患者さんを診ていた経験から、生活を整えることの重要性をひしひしと感じていたんです。精神科の患者さんに接していると、生活がぐちゃぐちゃになっているケースの多さが気になりました。睡眠のスタイルがひどく乱れているとか、毎日同じものばかり食べているとか、そういう暮らしをしている人たちが一定数いるのだけれど、短い診療時間の中ではなかなかそこまで関与できない。もっと患者さんの生活スタイルに寄り添うような診療ができれば……と考えるようになっていました。

学生時代に「普通の病気を診られる医師になりたい」と考えていた通りに、内科、救命でのレジデントも経験できましたし、その後、精神科の臨床経験もじっくり積むことができた。では、自分の思い描いている理想の医師の近づくためにはあとどんな知識が必要なのだろうかと考えて、このタイミングで漢方医学のレジデントになったんです。

出会って3ヵ月で結婚。そして産業医というワークスタイルへ

北里大学での研修中だった2014年の秋、結婚しました。
夫とは出会って3ヵ月で入籍したんです。それで結婚して1ヵ月経ったところで夫が上海へ赴任になって(笑)。結婚するタイミングではまだ時期や場所はわかっていませんでしたが、彼は商社マンだったので、ゆくゆくは日本にいられない時期が来るんだろうという覚悟は最初からありました。

海外駐在のことが念頭にあったので、夫とは「結婚を機にライフスタイルは変わっていくかもしれないけれど、仕事は続けたいよ」ということはもともと話し合ってありました。だからこそ、それまでの常勤医という働き方とは違う可能性が欲しいなと考えていたんです。

そこで結婚のタイミングで日本産業衛生学会の専攻医になり、会社を立ち上げて独立しました。産業医の資格を取ったことで、働く場所や時間帯を限定することがなくなり、夫を追いかけて上海に向かうことができました。

そして漢方のレジデントを終えた2015年春からは、上海と東京とを往復して働くようになりました。いまは上海の日本人向けクリニックに勤務していますが、同時に複数の国内企業において産業医を務めています。結婚、そして産業医資格取得を機に、国内と海外を行き来するワークスタイルを開始したんです。

臨床医時代に比べて、より患者さんと向き合えるという手ごたえ

上海のクリニックでは日本人医師はわたしだけで、その点では非常に大切にして頂いたと感じています。ただ、現地の日本人向けの健診業務に従事していましたが、ルーティンワークが多かったため、自分のキャリアとしてはあまり将来性を感じなかったんですね。

一方、始めてみると産業医の仕事が自分にはすごく合っていることがわかりました。精神科の臨床医をしていた頃は、病院で患者さんを待っていて、1人につき5分、10分という短時間で診なくてはいけなかったわけですが、そのスタイルがストレスフルだったんですね。

例えば過労からうつ病を発症してクリニックに来られている。この人はどんな仕事をしていて、どんな働き方で、何に困って、どういう経緯でうつ病になってしまったんだろう。そこに迫りたくても、時間がないと聞き切れない部分が多いんです。だから勤務医では患者さんと向き合い切れないというストレスが常にありました。

ところが産業医だと企業にお邪魔して、1人の社員さんにつき20分、30分かけて、場合によっては毎月続けてお話を聞いていけます。そうすることでより根本的な解決プランづくりのお手伝いができますから、やりがいを感じるんですね。それぞれの従業員の方のサポートももちろんですが、個々人のサポートを積み重ねていくことによって組織の環境改善にもつながっていく実感もある。非常に手ごたえのある仕事だと思っています。

変化を楽しむタイプなので、多様な企業に関わることがよい刺激に

それに、毎日違った会社を見られるって純粋におもしろい体験なんですよ。ご縁があっていま16社で産業医をしていますが、ベンチャーのような成長途中の会社もあれば老舗もある。従業員規模も大小さまざまです。そういう違いに接することがおもしろい。こんなふうに変化に富む生活が自分には合っているんだな、と感じています。

そこでもっと産業医の仕事を増やしたいと考えて、いまは毎月日本と上海とを往復しています。月によって稼働状況は異なりますが、少しずつ軸足を産業医にシフトさせてきているところです。

 いま日本では16万事業所で産業医が必要なのに、実働は3万人だといわれていますよね。絶対的に産業医が不足している状況です。

 勤務医から転身した立場からすると、産業医の仕事というのは新鮮さがあって非常におもしろいものだと思うんですよ。大きな病院で短時間の診療しかできずもどかしさを感じていた頃に比べると、社員のみなさんの健康づくりに予防から役立てているという実感があります。メンタル不調で復職できるかどうか微妙なラインだな、と見受けられた方が、関わっているうちに不死鳥にようによみがえって復職できた事例などに触れると「ああ、本当によかったな」と。

 

中小企業の産業保健はまだまだ手探り
産業医として、新たなサポートのかたちを創出したい

また、産業医というとやはり大企業のほうが導入が進んでいますが、実際には従業員50人未満の小規模事業所のほうが人事面では大変さを抱えているのではないでしょうか。人事部門のマンパワーも不足していますし、従業員が1人欠けるだけでも労働者不足に直結しますから。

産業医として働くようになって痛感しているのは、人事労務担当の方というのは本当に多忙だということ。例えば「貴重なマンパワーを失わないためにも、ぜひ休職・復職制度をつくっていきましょう」「休職の書類手続きが煩雑ですから、システム化していきましょう」など、ご提案したいことはたくさんあるのですが、そこに工数を割いて頂くのが非常に難しいんです。

それから労務関係の法律についても、結構頻繁に改正がありますから人事の方がご存知ない場合も意外とあったり。ですから産業医であるこちらが最新情報を頭に入れていないとサポートできないんです。そこで最近は法律の勉強にも力を入れているところです。

産業医を始めるまでは「人事の方がいろいろやって下さるんだろう」と思っていましたが、皆さんお忙しいですから、こちらから積極的に具体的な提言をしていかないと現場は動きません。制度を拡充するために、人事の方が経営者に対してプレゼンする場にも同席して説明したりなど、想像もしていなかった経験もさせて頂いています(笑)。

最近、よいツールだなと思って活用しているのが、企業の従業員の年齢性別の構成比です。よく読み込むと、5年後、10年後にその会社が直面するであろう問題が予測できるんですよ。「若い女性が多いから、これから出産ラッシュですよ」「30代、40代の男性も奥さんが出産すればその分残業が難しくなるかもしれませんね。育休取得もありえますね」「バブル期の入社社員が多いのですね。これからがんにかかる人、介護に直面する人がきっと出てきますね」そういった話をすることで、「だからこういう制度を整えましょう」といった具体的な方針につなげることができます。

もしかするといまわたしのやっていることって、精神科医じゃなくてもできることなのかもしれない。けれど、臨床の精神科医をしていたときにはできなかった「生活を根本から改善する」「健康上の問題を未然に防ぐ」といったことに直接タッチできているという確かな手ごたえがあります。だからメンタルのこともわかって産業医でもあって、という経歴を活かして、今後も産業医という立場、もしくは顧問のような立場からでも中小企業のお役に立てたらいいな、と考えているんです。

また、産業医というのはわたしのようなフレキシブルな働き方もできますよ、ということが医師の先生方の間にもっと広まってもいいんじゃないかな、とも思っています。

穂積 桜(ほづみさくら)先生
2001年札幌医科大学医学部卒業。札幌医科大学、三笠市立病院で精神科初期研修。その後東京医療センターにて総合診療科・救命センターにて内科・全身管理について研修。都立松沢病院、久喜すずのき病院で精神科救命病棟勤務。2012年より北里大学東洋医学総合研究所常勤レジデントとして3年間の東洋医学診療研修を行う。2014 年に日本医師会認定産業医を取得し、現在16社の産業医を務める。(2017年11月現在)


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