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2018年02月23日

45歳で日本の医師国家試験に合格!
ウクライナ人女医のモットーは「案ずるより産むがやすし」

都心から電車で約40分。東大和市唯一の急性期病院である東大和病院で、消化器内科・緩和医療科の医師として活躍するバレンティナ・オスタペンコ先生は、ウクライナで医師免許を取得後、日ソ共同がん研究で来日。半年の滞在予定が、気が付けば今年で在日25年を迎えるという。

がん治療や緩和ケアへの豊富な知識・経験に加え、明るい笑顔で、今や患者から高い信頼を得る人気医師となった先生が日本の医師免許を取得したのは45歳の時。言葉の壁、異国での子育てと仕事の両立など、数々の難題を乗り越えてきた原動力、そしてがんの放射線治療から日本らしい緩和ケアのあり方を希求するようになったきっかけは何だったのか。日本で診療できる喜びや患者への想い、将来の夢など、いまも挑戦を続ける女医の25年間の歩みを伺った。

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がん研究で来日から6年超
1人の女性患者との出会いが転機に

「初めまして、今日はよろしくお願いします」

金髪に美しいグレーの瞳が印象的なバレンティナ・オスタペンコ先生が笑顔で入室した瞬間、取材前の緊張した場の空気が一気に変わった。関西弁交じりの軽快なトークで、取材陣の笑顔を引き出していく。初対面でも話しやすい空気感を自然に作れてしまうのは、バレンティナ先生の人柄のなせる業なのだろう。

「患者と医師」ではなく、「人と人」「心と心」というスタンスを大事にする先生だからこそ、多くの患者から慕われるのもうなずける。そんな先生のルーツを探るため、まずは医師を志した理由や、25年前に来日した経緯を尋ねてみた。

「私は幼い頃から『弱い人を守りたい』という気持ちをもっていた子どもでした。将来は弁護士になろうと思ったのですが、当時のウクライナはソ連の構成国だったため、弁護士になっても思うような仕事はできません。そこで、次の選択肢として思いついたのが医師でした」

ウクライナの医科大学を卒業後、旧ソ連国立がんセンター大学院に進学して博士号を取得。1993年に日本とソビエト連邦共和国共同のがん研究のために来日した。

「関西医科大学放射線科の研究員として働き、当初は半年で帰国する予定だったのですが…。放射線治療やハイパーサーミア(温熱療法)の研究を続けるうちに、半年、1年、また1年と、日本滞在が延びていきました(笑)」

バレンティナ先生はウクライナで学生結婚をし、長男を授かるも離婚。半年の“長期出張”のつもりだったため、息子を両親に預けて来日していたが、日本滞在が1年を過ぎた頃、当時5歳の息子を日本に呼び寄せた。

「いつまでも両親に預けっぱなしというわけにもいきませんし、日本で暮らすことは息子にとってもいい経験になると考えました。でも、言葉が通じない異国に、突然連れて来られた息子にとって、日本での生活は私以上に大変だったと思います。当時は苦労もたくさんあったけど、遠い昔のことであまり覚えていません(笑)。私は子育てについて語れるような理想の母親ではありませんが、今月の息子の結婚式がとても楽しみなんです」とほほ笑む。

日本語がまったく理解できない息子との新しい生活、異国での子育てと仕事の両立に奮闘するなか、初来日から6年。医師としての大きな転機が訪れる。ワシントンがんセンターへの留学の話が決まりつつあった頃、がんの増感方法の一種であるハイパーサーミアの説明に訪れた、大阪府貝塚市の西出病院で出会った60代の乳がん患者が、その後の先生の運命を大きく変えていく。

「人から必要とされる場所が自分の居場所」

その女性は日頃から不安が強く、精神障害も抱えていたため、バレンティナ先生が緩和ケアの一環として精神的なサポートを行っていた。先生を心から信頼する彼女が発した「どうか、先生が私の治療をしてください」という言葉に、心を大きく揺さぶられたという。

「私はこの方に本当に必要とされているのだと感じました。さらに、病院長からも『ここで私たちと一緒に仕事をしませんか』と誘っていただき、自分のいるべき場所はアメリカではなく、ここだと気づいたんです」

そう心に決めたバレンティナ先生は、1999年~2011年まで12年間にわたり、わずか40床の民間病院でハイパーサーミアの臨床と緩和ケアに携わることになる。患者との距離感が近く、多くの患者と接するうちに「この日本で、自ら治療ができるようになりたい」という想いが強くなっていったという。

「長年がん治療に携わり、ハイパーサーミア学会の指導教育者免許まで取得していながら、日本の医師免許がないために、抗がん剤はおろか風邪薬さえも処方できないのです。そんな私を見て、当時お世話になっていたクリニックの院長が『あなたに日本の医師免許がないのはおかしい』とおっしゃって、私のチャレンジ精神に火がつきました。外国人である私が日本で医師国家試験に合格するのは至難の業。そんなことは重々承知の上で、自分の限界に挑戦しようと決めました

バレンティナ先生の決心が揺らぐことはなかった。

自分の限界に挑戦、国試に合格!

外国人医師が国試受験をするためには、厳しい書類審査と長期間の日本語診療能力調査に合格しなければならない。

在日期間が長く、すでに流暢に日本語を話すことができたバレンティナ先生だが、日本語学校に通ったことは一度もないのだそう。英語の辞書片手に街に出て、積極的に地元の人に話しかけ、活きた日本を学んできた先生にとって「人とつながることは生きること」だったのだ。

しかし、国試のハードルは想像以上に高かった。
日本の受験生の勉強法をリサーチし、受験日までのクリティカルパス(工程表)を作って学習進度を徹底的に管理した。仕事をしながら、現役医学生の多くが使用する国試予備のネット講座を丸暗記するほど繰り返し見て受験に備え、見事合格。

「人生で一番苦しかった」
先生がそう振り返るほど、受験勉強は決して楽ではなかったが、念願だった「国境のない診療を実現する」という扉が遂に開かれた

がんの早期発見から緩和まで
一貫して診られる消化器内科の魅力

晴れて日本の医師となったバレンティナ先生の前に新たに立ちはだかったのは、マッチング(初期臨床研修病院の採用試験)だった。その時、研修病院を探すフェアで出会ったのが現在の勤務先である東大和病院だ。

「まず、スタッフがみんな明るく元気なことが好印象でした。外国人である私にも垣根なく積極的に接してくれて、働きやすい病院だと思いました。東大和病院の消化器科センターは、外科から緩和まですべてのステージのがん患者の診療を同一診療科で行うことも、病院を選ぶ際の大きな決め手になりました。一人の医師として採用してくれた東大和病院には心から感謝しています」

母国での研修修了から23年後、自分の息子と同年齢の医師とともに再び初期研修医となった当時の心境を聞いてみると、「この年で新しいスキルを学ぶことは、とても勇気がいりましたが、出会うものすべてが新鮮で、医学の進歩を肌で感じることができたことは、大きな収穫でした。実際、恥ずかしい思いも一杯しましたよ(笑)」と語る。

初期および後期研修を修了し、現在は消化器内科医として活躍するバレンティナ先生。消化器内科を選んだ理由は、がんの早期発見から緩和医療までを一貫して診ることができる消化器内科に魅力を感じたからだ。

消化器内科医の診療内容は、一般外来や内視鏡検査など多岐に渡る。
取材当日も急遽、緊急内視鏡検査が入り、「少しだけ中断しても大丈夫ですか?」と取材陣を気遣うバレンティナ先生。
しばらくすると、さわやかな笑顔で颯爽と取材現場に戻って来た。

臨床医としてcommon diseaseの患者とも接する日々のなかで、医師になって以来、常に頭の中にあるという“緩和医療”への情熱が、これまで以上に強くなってきたという。

「一般的には『緩和=がんの終末期医療』というイメージが強いですよね。でも、緩和を早期から導入することで、治療効果と生存率に好影響を与えるというデータもあるのです。同じがん患者でも、精神的にサポートされた人の方が、化学療法もよく効くというエビデンスもあります

 

また、病気になる前から緩和を導入することも、実は大切なことです。消化器科の場合、お腹が痛いという症状はあるけど、検査をしても異常が見つからない人も多いものです。精神的な不安の強い方ほど症状が出やすいですから、患者さんの話をよく聞いて、不安を取り除けるような治療を提供していきたいですね。診療の効率という意味では、他の先生にご迷惑をかけているかもしれませんが、緩和は時間が大切な薬。消化器科にはそういう医師も必要だと理解してもらっているのが有り難いです。抜け落ちてしまいがちな一般診療でも緩和を提供することが、今後私が果たすべき役割だと感じています」

日本人の文化に合った緩和ケアをめざして

「終末期のがん患者さんの治療に携わるうちに、日本人の文化にもっとも近い施設を作りたいという想いが強くなっていきました」

バレンティナ先生は、山梨県忍野村にあるお寺の住職ご夫妻とのご縁をきっかけに、医療と仏教のコラボレーションの実現に向けて踏み出した。現在は、富士北麓で緩和ケア勉強会を開いている。住職はすでに臨床宗教師*の資格を取得されている。

「まだまだ夢のままですが、最後までその方が自分らしく生きられるために全力を尽くせるよう、夢を一歩ずつ形に近づけるよう努力していきたいと思います」と、バレンティナ先生は微笑む。

常に挑戦し続けるバレンティナ先生と話していると、人は置かれた状況によらず、いつでもチャレンジできるのだと教えられた。

*死期が迫った患者や遺族に対して、宗教や宗派にかかわらず、また布教伝道をすることもなく、公共性のある立場からの専門的な心のケアを行う宗教者。

「元気がないときは気持ちをリセットすればいい。私にとってのリセット方法は『自然と触れ合うこと』。時間がないときは、自宅で栽培する蘭とバラに触れ合うことがよい気分転換になります。もちろん、友達と一杯飲みに行くこともありますよ(笑)」

 

失敗を恐れず、前に踏み出す。うまくいかないことと出会うことが、自分を成長させてくれる。数々の苦難を乗り越えたバレンティナ先生がたどり着いた生き方に、勇気づけられた人は多いのではないだろうか。一歩を踏み出すことの大切さを教えてくれたバレンティナ先生が築く、日本人の文化に合った緩和ケアへの取り組みに今後も注目したい。

バレンティナ・オスタペンコ医師


1965年生まれ、ウクライナ共和国出身
1988年 ドニプロペトロブスク医科大学を首席で卒業
1992年 旧ソ連国立がんセンター大学院修了。放射線医学博士号を取得
ドニプロペトロブスク医科大学講師
1993年 日本とソビエト連邦共和国の共同がん研究のため来日。関西医科大学放射線科の研究員としてがん治療の増感方法に関する研究に従事
1999~2011年 民間病院でハイパーサーミアの臨床に携わる
2011年 日本医師国家試験合格
      東大和病院で初期臨床研修医となる
2013年 同院消化器内科の後期研修医となる
2016年 後期研修修了後、同院消化器内科に入局、現在に至る

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文/岩田 千加

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