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2015年10月04日

子育て中心の暗黒の6年間が、キャリアの土台を築いてくれたー
帝京大学緩和医療学講座・教授 有賀悦子先生インタビュー

日本における緩和医療の道を開拓してきたフロンティアの一人、帝京大学医学部緩和医療学講座教授・診療科長である有賀悦子先生。2児の母であり、第一線で活躍する医師である有賀先生に聞いてみた、母として、妻として、そしてもちろん医師としてのこれまでのこと。

「家族と良好な関係を築くにあたって気を付けたことは?」
「よい母、よい妻であろうとしなかったこと(笑)」

的確で理路整然とした語り口、厳しく凛とした中にも温かさがにじみ出る有賀先生。育児もきっとクールにそつなく、されどやさしさをもってこなされてきたのだろうと思いきや、

「怒りまくりました。叩いたこともありますし」

と意外も意外な言葉が飛び出す。思わず、「有賀先生でもそんなことが?!(「しかも、言っちゃっていいんですか、先生!」と心の中でツッコミ)」と驚きを隠せずにいると、「子どもが言うことを聞いてくれないので、怒りにまかせてキッチンにあった椅子を投げ飛ばしたこともあります。もちろん壊れました(笑)」。その椅子は‛自分を抑えろよ’という意味でいまも玄関に飾ってあるという。

「子どもたちも‛人って幅があるものだな’と、母親は相当に葛藤しながらいまに至っているということをなんとなく感じてくれていると思います。人間味はあるかもしれませんが、goodな母親ではなかった。いまだに小さい頃にお母さんが怒り狂っていたのが嫌だったと率直に言ってくれます。でもいま同じ場面が来たら、やっぱり同じことをやってしまうと思います。完璧ではない、それが人間なのよ、と(笑)」

同じく医師である夫は、「分身のような存在」。「ずっと腫瘍免疫の研究を続けていました。私もアメリカでは同じラボで免疫の研究に従事し、半ば未練はありますが、そちらは任せて、私は治らない人をなんとかするわ、と。二人合わせて足し算でやっと1かしらというところです」と語る有賀先生。夫を評して、「言えばなんでもやってくれる人ですが、言わなければ気が付かないタイプ」とも。そんな夫に対して試みていたのが、二者択一。「小さなことですが、なにかやってほしいことがあるときは、‘これをやって’というイエスノーの頼み方ではなくて、二者択一。ご飯を研ぐのとゴミ捨ててくるのとどっちがいい?と(笑)」。

いまでは家事も率先してやってくれるようになったというが、夫婦での渡米時代に、有賀先生が72時間だけ学位審査のために帰国しなければならず、2人の子どもたちを夫一人に預けていったことが大きなきっかけとなった。「上が4歳、下が2歳の時です。帰ってきたら、食事洗濯掃除きっちりやってありました。これを契機にすべてをできるようになったという意味では、子どもと主人だけで乗り切るしかない状況も、過激ですがよかったかもしれません。子どもたちを預けていたミシガン大学付属病院のナーサリースクールでは、友だちのお父さんたちが皆やっていて、当たり前という感覚になってくれていたのも大きい。たとえば、妻が3週間ブラジルに出張となれば、夫がすべてやる。環境は大事です。日本では保育園への送り迎えをしたこともなければ、抱っこひもで抱っこした経験もない夫でも変わってくれました。」

ワークライフバランスではなく、ワークライフデザイン

大学卒業時、死に関する領域の医療に関わりたいと、移植か緩和医療への入局で迷ったという有賀先生。当時日本では緩和医療を学べるところがほとんどなかったことと、移植医療で助かる命がきちんと助けられる医療とはどんなものなのかを学んだ上で次のステップをと考えたことから、腎臓移植の件数が国内で最も多かった東京女子医科大の腎臓病総合医療センター外科へ入局した。

入局2年目を終了する頃、外科医のコースを志しながらも、もともと自身も腎臓があまり丈夫ではなく、子どもを産むなら早いほうがよいと考え、長男を出産。ところがアレルギーが強く出て、保育園に預けることもできない。主任教授と相談し、いったんは常勤職を辞め、研究生として在籍することに。なんとか学位だけは取得しようと、週1回の研究とその間のベビーシッター代のための透析バイトを続けた。学位の見通しが立つという頃、「このままでは医師に戻れない」と考えた有賀先生は、アメリカへ行くことを同じく医師である夫に持ちかけ、ともに渡米。移植免疫から腫瘍免疫に代わり、グラントを得ることができたミシガン大学腫瘍外科でリサーチフェローとして、乳がんがん遺伝子治療・免疫療法の研究に従事する道へと進んだ。

「キャリアモデルやキャリアパスなんて言っていられない。目の前のことにどう対処していくか、生きていくだけで精一杯でした。ただし、その中で振り返って感じるのは、自分の中で満足はいかなくてもよしとできるものを選んできたということ。不平不満もたくさん言いましたが、その中にあってもこれだったら自分で許容できるというところを自分で選択してデザインしてきた。よくライフワークバランスと言いますが、バランスという言葉からは、必ずどちらかを犠牲にしているような印象を受けます。たとえば足して1だから、いまはこちらが0.8で、こちらが0.2と、どちらも不満足。だからバランスではなく、デザイン。‛子どもが病気だから私は研究生(非常勤)になってしまった’ではなく、常勤で当直ができない心苦しさ・負担感を味わうよりも、自ら進んで非常勤。家に子どもとこもって悶々とするよりは夫をたきつけてアメリカへ行く(笑)ダメだからこうするしかないという消極的選択ではなく、その時の私のベストはこれ!という、積極的選択です。非常勤が長かったけれど、自分なりのよい選択だったと思っています。」

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アメリカで開かれた緩和医療への道

 大学卒業時から、いや、本当はずっと以前から、頭の片隅にあったであろう緩和医療への道は、アメリカで開かれることになる。英語の勉強を兼ねて通う教会で出会った知人を通じて、ホスピスを紹介された有賀先生は、主であったラボワークの傍ら、週1回ホスピスの現場へ足を運んだ。「これが緩和医療を学び始めたスタートラインです。」

3年3カ月のアメリカでの生活を経て帰国する際、腎臓外科へ戻るか緩和医療かと悩んだ有賀先生。周囲に相談すると、国立がんセンター東病院緩和ケア病棟へと縁がつながり、本格的に緩和医療の道へと歩みを進めることになる。「自身がこの道だと意識的に邁進してきたというよりも、子育てや生活やいろんな出来事の中で、こういう医療をやりたいと抱いている思いが潜在的に緩和医療を選択させてきたのだろうと思います。以降、緩和医療にずっと携わってきているのは、やはり居心地がよいからでしょうね。」

”子育ての暗黒の6年間”が、医師としてのキャリアの土台を築いてくれた

「子どもを抱えているときには真っ暗闇のトンネルの中にいるようで出口は見えない。子育て中心の6年間は、‛暗黒の時代‘と呼んでいますが(笑)、実はいっぱい気が付いていない花が咲いていたのだろうと思います。いま教授職についていますが、その時に書いた論文、インパクトファクターの数でいまがあります。ここにつながってくるとは露知らず、とにかく目の前にある仕事だけをこなしていましたが、実は大きなキャリアの土台を築いてくれていたのです。」

「親が働く背中を見せるなんてカッコいいこともしていない」と笑う有賀先生だが、長男は医学部へ進学し、次男は開発経済の分野から世界を目指し、ロンドンの大学院へ留学中だ。「お母さんは自分がやりたいと思ったことの分野の第一人者として歩んでいる。自分の人生を自分らしく生き抜いているよね」と息子たちから言われた時には、「あの6年間が報われたように感じました」。

医師としてのキャリアの過程に緩和医療を―――

最後に、「育児と医師としてのキャリアの両立に悩む女性医師にメッセージを」と尋ねると、「緩和ケアチームは入院を持たないことから子育てとの両立が図りやすい分野。医師としてのキャリアを中断するのではなく、子育ての期間、一時的に緩和医療の分野に従事して、また自分の分野へ戻っていくというキャリアパスを視野に入れてみてはいかがでしょうか。治癒困難な患者さんに対する医療は、倫理感を養い、手技だけではなくコミュニケーションスキルなどの人を看る医療のブラッシュアップにになると思います。いつでもお待ちしています」とのアドバイス。

2017年には第22回日本緩和医療学会学術大会の大会長という大役も控える有賀先生。「欲深いんです」と、いまなお好奇心を失わない有賀先生の前に、どんなドアが開かれていくのか―――これからにも期待したい。

 ■文 今村美都

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